#3 秘められた力
再び、隔離寮。
ウルリとクロナは二人きりになっていた。ウルリはリビングから奥の、自分の寝室で大の字になって寝転がっており、クロナはリビングのテレビが置いてあるスペースで、何をするわけでもなくただ座っていた。
空間にほとんど会話はなく、静寂に満ちている。時々クロナが耐えきれずウルリのいる部屋の方を見るが、自ら声をかける勇気はまだ出ない様子だった。
ウルリもベッドに倒れこんではいるが、狸寝入りだった。クロナの方を気にする素振りはあるものの、そこから動く事はなかった。
「はぁ...退屈だなぁ」
ウルリは誰にいうわけでもなく呟く。
「こんなところにいたら、退屈で頭おかしくなるぞ...」
むくりと身を翻し、嘆息する。
「出かけちゃおっかな。うん、そうしよう」
あっさりと脱走を決意するウルリ。ベッドからはね起きると、すたすたとリビングを横切っていく。それに気づいたクロナは、慌てた様子で立ち上がり、ウルリの袖を引いた。
ウルリは驚いて振り返る。クロナも、なぜそうしているのかを一瞬忘れるほど、自分に驚いた。しかしすぐに我に帰り、彼は言った。
「ウ、ウルリさん!どこに行くんですか?」
「あぁ、退屈だから、ちょーっと出かけようと思って」
「だ、ダメですよ!ディグさんに待っているように言われたじゃないですか」
「そんなこと言われても、退屈すぎて困るよ...」
「うぅ、ダメです。怒られちゃいます...」
クロナは、今にも泣きそうなのを堪えながら、勇気を持って必死に引き留めようとしていた。ウルリはその様子を見て、申し訳なさそうに顔を歪ませた。しかし、退屈さを天秤にかけると、容易に傾いてしまう。
「大丈夫!クロナだけここで待ってれば、怒られるのはオレだけだから!なっ?」
「で、でも、もっと上の人に怒られるのはディグさんですよね」
「ん、そーだっけ?まぁいいじゃない」
ウルリはクロナを振り払い、部屋を出て行ってしまう。クロナは慌ててあとを追うが、部屋を出ると既にその姿はなくなっていた。
「あれ!?ウ、ウルリさん?」
辺りを見回すが、そこは施設の一端とは思えない地底洞窟のようになっていて、どこを見ても岩肌しかなかった。実はウルリの隔離寮は地下の最下層にあり、その空間はほとんどが手付かずであった。それだけコストのかかる何かがそこにはあり、それに費やしている分設備が整っていないのだが、クロナにそれを知るすべはなかった。
「ウルリさーん!ど、どこですかー!」
返事はなく、クロナの声が虚しく響き渡る。彼は部屋に戻ろうか思案したが、このままではウルリが、ディグが、お小言を食らってしまう。
そう思うと、彼は部屋から走り出していた。
道なき道を駆ける。天井は恐ろしく高く、吸い込まれるような闇を落としている。唯一の明かりは岩肌から突き出すLEDライトで、その広さゆえに薄暗さを残している。
クロナは壁伝いに地下を走り、時々ウルリの名前を呼んだ。答えがないことはわかっていたが、沈黙したままたった一人でいることの方が彼には辛かった。
やがてクロナは、白い、明らかに人為的な設計の施された建物の前にたどり着いた。見上げてもなお天井の見えない高さであり、入口でさえ彼の何十倍もあった。妙なことに窓は一切なく、一枚板の壁であるようだった。
ウルリを探すため、クロナはその入口を叩いた。扉は機械式で、センサーがクロナの存在を感知すると瞬時に開いた。そしてパッと内部の電灯がついていき、眩い白い空間が彼の前に現れた。
クロナは意を決して、そこに足を踏み入れた。
直後、激しい殴打音と共に破砕音が続き、ひしゃげた鉄棒やコンクリートの塊がクロナを襲った。
「うわぁぁ!!」
思わず悲鳴を上げ、建物から飛び出す。扉は閉まらず、様々なものを吐き出している。心臓の激しい鼓動に痛みを覚えながらも、クロナは勇気を出して、恐る恐るもう一度内部を覗き見た。
そこには、拘束具をちぎり捨てる、体長5メートルはあろうかという巨大な生き物が、六つの腕を振り回して暴れていた。血走った目は正気を失っており、呪詛の漏れ出そうな口から涎を垂らしている。歪な角の生えた頭をぐるりと動かすと、怪物はクロナのいる入口を見つけた。
歓喜を示す叫び声を上げ、それは入口に向かって突進した。入口は自由の身となった怪物にとっては狭すぎたらしく、ぶつかると同時に強い衝撃と細かな瓦礫を発生させる。クロナは衝撃に吹き飛ばされ、地面を転がり落ちた。
「ひ、ひぃ...!」
クロナは這いずって逃げ出そうとするが、恐怖で身体が動かない。その背中を、怪物は見つけていた。
ゆっくりと小さな背後に近づき、異形の爪の生えた腕を振り上げる。そして無慈悲にも、それは叩きつけられた。
高く舞う土埃。強い振動。怪物は結果を確かめもせずにふいと方向を変え、外へと続く出口を求めて動き出そうとした。
しかし、その聴覚が捉えた情報が、動きを止めた。怪物の背後で、荒い息づかいが聞こえたのだ。ゆっくりと振り返ると、やがて土埃も落ち着いてくる。
「はぁ...!はぁ...!」
死に直面したかのように、蒼白の顔色をしたクロナが激しく息を吐いている。恐怖に震える身体を抑え、それに全神経を集中しているのか瞳はただ一点を見据えたままだ。
その身体をしっかりと抱く、黒髪の少年は、怪物に向かって鋭い視線を向けていた。先ほど姿を消したはずのウルリである。
「お前、見たことないけど、拘束されてたEBEだな?クロナを攻撃しやがって、やっつけてやる!」
ウルリは言い終えるより先に跳躍していた。その身体は次第に歪み、彼の人間性を失わせる。代わりに構築されたのは、上半身が獣の頭と屈強な肉体を持つ異形であった。それは怪物に飛びかかると、鋭い爪と牙で肉を抉った。
怪物は悲痛な声を上げ、ぐるりと身体を回転させる。人狼は...ウルリは飛び退き、壁を蹴って再び急所を狙う。その喉元に食らいつくと、容赦なく血管ごと引きちぎった。
弾ける鮮血と恐ろしい戦いの光景にクロナはすっかり竦んでいた。助けられたとはいえ、戦うウルリの姿は怪物と相違ない。彼は残る力を振り絞り、岩陰へと身を隠した。
ウルリが優勢に見えた戦いは、次第に逆境を孕み始める。怪物が激しく抵抗して攻めきれず、トップギアで臨んでいたウルリは着実にスタミナを失いつつあったのだ。距離を取ろうにも空間は横方向では狭く、簡単に詰められてしまう。やがて振るい出された二本の腕をかわす最中に、片方の腕に当たってウルリは弾き出された。岩肌に打ち付けられ、ずるりと地面に落下する。
「く、くそっ...!」
血を吐き捨て、立ち上がろうとする。しかし、岩に叩きつけられた時に足をくじいたらしく、思うようにいかない。
目の前には怪物が、好機とばかりに迫ってきていた。
「ああ、くそっ!いてぇ!いてぇけど、やってやる!」
ウルリは反撃をしようと身構えた。機動力をほとんど失った彼は、気持ちとは裏腹に絶望的な状況であった。しかし怪物は大きな傷を受けた怒りから、容赦という言葉を捨てて襲いかかっていた。
岩陰に隠れていたクロナはその凄惨な有様を目の当たりにして、すっかり恐怖に囚われていた。心拍数が上昇し、痛烈な頭痛と強い嘔吐感を感じ始める。耐え切れなくなったクロナは耳を塞ぎ、目を閉ざした。
その時、重い一撃に吹き飛ばされたウルリが、激しく床に叩きつけられながら転がってきた。全身に痛々しい傷を作って、血を流しながらも、彼は闘争心を燃やして怪物を睨み付けていた。
「くっそぉ…!まだまだぁ!!」
威勢を露わにしながら牙を剥くウルリだったが、満身創痍では這って動くこともままならない。相対する怪物の目には、彼の姿などもはや脅威には映っていなかった。
怪物はゆっくりと近づいてくる。その巨大な口から異臭と粘液を垂らしながら、とどめの一撃を加えようとしていた。
ウルリはクロナに叫んだ。
「おい!えっと…クロナ!お前早く逃げろっ!」
「ええっ!?で、でもウルリさんが…!」
「オ、オレのことはいいから!一緒にいたらお前までやられちまうぞ!」
「でも、でも…!」
「でもじゃねぇ!早く行けってんだ!」
ウルリはクロナを救いたい一心で叫んだが、余裕を失っていたためにその形相は怪物さながらであった。それに気圧されるクロナだったが、それでもウルリのことを置いて行くなど絶対にしたくなかった。
(そうだ、勇気を出せ…!ボクが…ボクが、ウルリさんを守るんだ!)
その瞬間、クロナは意を決した顔つきに変わり、走っていた。そして傷ついたウルリの前に立ち、怪物に向かって両腕を広げる。
怪物が雄叫びをあげた。ウルリも何かを叫ぼうとした。だが全ての音は、動きは、クロナには止まっているようにみえた。まるで走馬灯のように、限りなく引き伸ばされた時間を、その場の全員が体験する。
「ボクが...お前を止めてやる!」
クロナの叫び声と共に、一瞬波動が発生する。心臓の鼓動のように脈打った波動は、場にいる全員を飲み込んだ。
瞬間、怪物の振り上げた腕が急激に減速した。怪物自身も大口を上げた状態で、そこから今にも何かが出てきそうである。舞い上がった土埃はゆっくりと滞空しており、崩落する建物や岩は、その欠片をふわふわと浮かせていた。
「...え?」
ウルリは、目を白黒させた。今の今まで激しい戦いをしていただけに、拍子抜けするほど静かで、ゆったりとした空間が信じられなかった。
目の前には息を切らしたクロナが立っている。頭の回転が遅いウルリといえど、この状況の原因となったものはすぐに理解できた。
「ク、クロナっ!お前の仕業か?!」
クロナは答えない。いや、正確には答えられなかった。この空間を維持するために、彼は精神を集中させていたのだ。吐き出しそうになるのを堪え、倒れそうになるのを押しとどめて、クロナは言葉を絞り出した。
「は...やく、お願い...!」
ウルリは自身の身体の異変にも気づいた。くじいたはずの足が、治っているのである。クロナの真意を汲み取り、ウルリは飛び上がった。
腕を振り上げ、無防備な姿を晒す怪物に突撃し、彼はもう一度その頚部を噛みちぎった。肉を絶っても骨を砕いても、不思議なことに血は出ない。というより、出るのが異様に遅くなっていた。よく見ると怪物も完全な停止状態ではなく、ゆっくりと僅かにだが、動いているのだ。
つまりは、ウルリとクロナを除くすべてのものの時間が、限りなく遅くなっているのである。
ウルリは疑問を飲み込んで、攻め続けた。時間が元に戻っても反撃できないように、目を潰し、腕も折った。
その時、彼は背後で、クロナが倒れるのに気づいた。
「クロナっ!」
ウルリは怪物から飛び退き、彼の元へ急いだ。
その瞬間、土埃が舞い始め、ガラガラと瓦礫が崩れ始めた。クロナの力が切れたのだろう。時間の流れが正常に戻りつつあった。
怪物は絶叫し、傷つけられた全身をのたうち回らせた。しかし血はどくどくと流れ出し、その意に反して着実な死を迎えようとしていた。
ウルリは最早、怪物のことなど目もくれなかった。元の姿に戻り、クロナを抱き上げる。彼は僅かだが息をしていた。どうやら気絶しただけらしい。
「あ...ウルリさん...無事だったのですね」
そう、か細い声を出すクロナ。ウルリを見るや、安堵に包まれた顔をする。
「...よかった。ウルリさんが来てくれなければ、ボクはどうなっていたか…」
「いや、オレの方こそだよ。クロナがいなかったら、たぶん無事じゃなかった」
「いえ、それはボクの台詞で...」
「違うよ、オレの台詞」
「いや...でも...」
「もう!もういいよ!二人共無事でよかった!そうだろ!」
押し問答に痺れを切らし、ウルリが叫ぶ。その大声に、クロナはびっくりした様子で表情をこわばらせていた。
「はぁ、悪かったよ。お前を置いていって...怖かっただろ?」
「い、いえ。いいんです。勝手について行こうとしたのはボクの方ですから...」
「もー!次またそんなこと言ったら、ほっぺたつねるぞ!」
「あ...う...」
変化した鋭い爪を見せつけられ、口を噤むクロナ。それを見たウルリは息を吐くと、やがて表情を笑顔に変える。
「ありがとーな。お前のお陰で助かったよ」
「いえ...あっ...えと、こ、こちらこそありがとうございました!危ないところを助けてくださって!」
「いいってことよ!そしてお前もそうだ!」
「え?え?ど、どういうことですか??」
「お前も、オレに胸を張れ!助けてやったぜ、どういたしましてってな」
「あ......は、はい」
ウルリに釣られて、徐々に笑顔を見せるクロナ。それを見て、もう一度ウルリは笑う。今度は一際大きな笑い声を上げて。
数分前までは互いに距離を測っては戸惑っていたのが、今では友達のように笑い合っていた。
共通の敵を見つけた人は結託するというが、この二人の場合、互いに同じ窮地に陥り、互いの力で乗り越えたことで、結託以上のもの、友情を手に入れたのだった。
やがて、異常を感知した武装職員が現場に続々と集まってきた。中には二人を心配してきたディグもいた。ディグは勝手に寮を出たことに少し怒ったが、二人が無事であったことに深い安堵し、抱き締めた。それに感化されてか、ウルリとクロナはすっかり気を緩め、気を失うように眠ってしまった。