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​#10 星を落とす者

針が示す時刻は、既に3時を回った。
鬼怒谷は表情に少しずつ焦りの色を浮かべていく。

ステラが帰ってこない。

秒針が容赦なく進む毎に鬼怒谷は強く不安を感じていた。今までに、こんな遅くまで彼女が戻ってこないことがなかったわけではない。だが、内心に抱える気がかりが、現状に対する明白な理由を示していた。
何かあったに違いない、と。


暴君で尊大な彼女に何かあると思うことは、おこがましいことだろう。それでも鬼怒谷は心配で堪らなかった。
彼はついにリュックを引っ張り出し、必要なものを詰め始める。

(あとで怒られたって構うものか、僕は心配なんだ)

鬼怒谷が気持ちを固めた時、玄関から物音を聞いた。

「ステラ!?」

彼は急いで玄関に走った。靴も履かずに鍵を開けると、扉を開いた先にヨーマが立っていた。

「あっ……ヨーマさん」
「ステラは、戻っていませんか」

ヨーマはいつも通り淡々とした口調で言った。しかし、その表情は困惑を含んでいる。鬼怒谷が答えきれずにいると、彼はさらに暗い顔を見せた。

「そうですか。夜分にすみません」
「あ、待ってください!」

鬼怒谷は、踵を返すヨーマの腕を掴んだ。

「あなたも、おかしいと思ってるんですよね。ステラが帰ってこないのを」
「はい。可能な限り、彼女のことは監視していますので。しかし、今日は朝以降見かけることが出来ていません」

朝。それはあれが起き始めた時間。
鬼怒谷は唾を飲み込み、ヨーマに話した。

「ひょっとするとステラは、罠に嵌められたのかもしれません。僕も今から探しに行こうと思っていたところなんです。心当たりがあるので、一緒に来てもらえますか?!」
「助かります」

 


二人は深夜の街道を進んだ。僅かに残る家屋の灯りや街灯のお陰で真っ暗ではなかったものの、普段活気に溢れている場所がこうも人気のない状態になっていると、物寂しい感じがした。
鬼怒谷は前方の暗闇に霞んで見える山を睨んだ。覚えている限り、ステラが飛び去った方向はあの山の方だった。そこは深夜ゆえに薄気味悪さを増しており、塗装の剥がれた注意書きが立ち並ぶ入り口は二の足を踏ませようと圧をかけている。
しかし、ステラへの心配とヨーマへの心強さを備えた鬼怒谷は、迷わず足を踏み入れた。

「気をつけてください。敵対的な気配を多く感じます」

ヨーマが耳打ちすると、先行して山道を進んでくれる。彼の背中を追って鬼怒谷は鬱蒼とした木々をすり抜けていく。
辺りの異様な静けさが不気味さに拍車をかけた。まるでこの世ではないような感覚に囚われそうになる。鬼怒谷はヨーマを追いかけることに集中することで、その考えを捨てようとした。

不意に鬼怒谷は足を止めた。どこか遠くで声がした気がしたのだ。彼は辺りをぐるりと見回す。

「見つけましたか」

ヨーマが振り返り、鬼怒谷の元にやって来る。無表情の奥に隠された期待が滲み出ていた。

「……いえ、どうやら違うみたいです」

鬼怒谷はそう直感した。だが、その声は誰かを呼んでいた。彼はそれが助けを求めているような気がして、つい歩き出していた。
ヨーマの止める声が聞こえたが、鬼怒谷は進んだ。

草木に分け入り、丘を駆け上がって、拓けた場所にたどり着く。そこは木々が無惨にへし折られ、土が掘り返された跡が残っていた。状態はまだ新しそうだった。
鬼怒谷が穴の一つに近づくと、またあの声が聞こえた。

「……君は!」

穴の底には、ウルリがいた。彼は冷や汗を掻き、蹲っていた。手を当てている腹からは赤黒いものが零れていた。
鬼怒谷は慌てて穴に入った。

「その人間は……いつかの」

鬼怒谷がウルリを介抱している間、ヨーマは穴の上から見下ろしていた。少年の姿には、彼も見覚えがあった。

「この子、ステラと最後にいたはずなんです。何か知っているかも……!」

ウルリの腹部には丸く焼け焦げた跡があり、そこから出血していた。だが、応急処置を施せばなんとか助かりそうだった。
鬼怒谷は手早くリュックから救急セットを取り出すと、ウルリの怪我の処置を進めた。

「う、ううっ……」

処置中、意識を取り戻したのか痛みに反応してか、ウルリが呻いた。汗を拭ってやると、彼はゆっくりと瞼を開く。

「あれ……ディグ……?」
「ううん、違うよ。覚えてる?僕のこと」
「あ……!」

ウルリは瞬き、跳ね起きた。しかし傷に障ったのか顔を顰める。

「君、怪我をしてるんだ。動いちゃダメだよ」
「そ、そうみてーだな。いてて……って、お前さっきの!なんでここにいんの!?」
「遅いですね」
「うわっ!黒いのまでいる!!うわーっ!」
「ちょっ、落ち着いて!」

ウルリはヨーマから逃げるように鬼怒谷の背中に回り込んだ。先日のことで余程警戒しているようだ。鬼怒谷はなんとか怯えるウルリを宥めると、彼を向き直した。

「いいかい。よく聞いてほしいんだけど、君が一緒にいた子……ステラがどこに行ったか教えてくれる?」
「ステラ?……あっ!」

ウルリは思い出したように声を上げた。

「ステラは……ステラは、連れてかれたんだ」
「なんだって!?」

今度は鬼怒谷が声を上げる。ヨーマの表情も硬いものに変わった。

「う、うん。オレ、ステラを捕まえてくるように言われて、ここまで来たんだけど、ELIOの皆が来て、オレの代わりに連れてっちゃったんだ」
「ELIO……」
「その人間を生かしておくのは悪手だったかもしれませんね」

気がつくと背後にヨーマが立っていた。鬼怒谷は咄嗟にウルリを庇った。

「安心してください。今更何かする気はありません。起こってしまったことは仕方がありませんから……」

ヨーマはそう弁明すると、ウルリの方を指した。

「それに、おかしいではありませんか。同胞であるのなら、負傷した彼だけがここで取り残されているはずがありません」
「……僕も、おかしいと思います」

鬼怒谷はヨーマと同じ疑問を持っていた。
ウルリの言うことが確かなら、ここにELIOの職員が来たことは間違いない。だが、彼らはウルリを置いて撤収している。彼が無傷であればまだ分かるが、負傷したままだ。それもステラが残した傷ではない。
おそらく銃創と思われる傷。素直に考えるのなら、やったのは……。

「すぐELIOに向かいましょう。ステラはそこにいるはずです!」

鬼怒谷が力強く言い放つと、ヨーマは静かに頷いた。彼は浮き上がり、穴の上から赤黒い梯子を垂らした。

「待ってくれ!オレも行く!」

ウルリが鬼怒谷の服を引っ張った。その目は強い意志に燃えていたが、表情は痛みで顰められている。鬼怒谷は彼に向き直った。

「君もあそこの関係者みたいだけど、今は近づかない方がいいと思う。近所に僕の友達がいるから、彼と一緒に……」
「いやだ!」

ウルリは鬼怒谷の言葉を遮って叫ぶ。

「そんなこと言われてもオレは着いていくぞ!ELIOがどうなってたって!」
「で、でも君、身体がまだ……!」
「こんなのへいちゃらだ!とにかく着いていくからな!」

ウルリは一向に聞き入れないどころか、既に梯子に捕まっていた。彼は頑として着いてくるつもりらしい。ここで説得に費やす時間はもうないと判断した鬼怒谷は、不安を増やしつつ梯子に手をかけた。

 


それから以前か、あるいは以後の刻。
真っ白な部屋の中でステラは目覚めた。
四肢には謎の機械が取り付けられ、自由を奪われている。虚ろな視界の先には、人影があった。
歪な表情を浮かべ、仰々しい機械に手をかける柚羅である。

「お目覚めだね。ご機嫌はいかがかな」

柚羅はゆっくりと歩み寄り、ステラの鼻面を指した。ステラは反射的に噛み付こうと牙を剥くが、彼は素早く身を引いた。

「その気性の荒さは変わらないねぇ。いや、活きがいいと褒めるべきか」
「ふん、お前こそしぶといじゃないか」

ステラは目の前の男を睨みつけた。今すぐにでも殴りかかりたいところだったが、疲労した身体では拘束を解くこともままならない。
それを察してか、柚羅は嬉しそうに笑った。

「偉そうな口を利くね。まぁいいさ、これを使えば君はまた僕達のものに戻る」

柚羅は機械を撫でた。それは安直に見て、無数のコードとパイプに繋がれた立方体だった。コードの先はステラの身体に繋がっている。彼は立方体の前で何かを操作する。

「生物は、脳の出す電気信号によって肉体を制御する。そしてこの機械は、その電気信号を障害する電波を作ることができるんだよ。人間なら良くて記憶喪失、悪くて発狂する。君の場合、肉体を保つことができず、崩れ落ちるだろう」

柚羅は機械を弄りながら淡々と語った。
ステラは唾棄したが、突然脳髄に微かな痛みを感じ、顔をしかめた。痛みは彼のチューニングに合わせてどんどん強まり、やがて全身を駆け巡る。それは塔のように重なり合った石が、与えられた衝撃で打ち震えるようだった。

「さすがは長い期間逃げ延びた個体だ。この程度では、堪えないかな?人間なら既に狂っているんだけどね」
「ふん……この程度で、私が音を上げるわけがないだろう。舐めるなよ」
「それなら、もう少し強めよう」

機械が、ギリギリと耳につく音を漏らす。脳を揺らす、不快な電波が室内を満たした。
その時、ステラの身体が強ばり始める。歯を食いしばり、拳を握って耐えているが、その目は血走って、苦痛のために痙攣していた。
柚羅は機械の効果を感じていないらしく、平然としていた。ステラが唸り声を上げる様子を見て、満足そうな顔をしている。

「安心したまえ、別に殺すつもりはない。ただ、君の身体を分解して、初期化し、再構築するだけさ。生まれ変わるんだ。他の仲間達のようにね」

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