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​#9 砕かれた絆

ステラは真夜中の空を飛行していた。眼下の町にはまだ明かりがたくさん点っていたものの、少し外れの住宅街にさしかかれば、光のほとんどない黒い領域が広がっていた。
今の今まで、ステラは自身の縄張りに異常がないか見回っていた。鬼怒谷を連れてきても良かったが、逆に外に出さない方が安全なのではと考え、試験的に置いてきぼりにしたのだった。とはいえ、彼の存在がないことは少々気がかりを生んだ。だからこそ、彼女はいつもよりスピードを上げて飛んでいた。
その時、不意に感じ取った強烈な気配がステラを捕らえた。彼女は急ブレーキで滞空する。その気配はほんの数秒だけのものだったが、十分な危険を予感させた。

(なんだ……?)

すぐに辺りを見渡す。ステラの目はか細い街灯に照らされた小さな公園を見つけた。その中に、影が揺らいでいるのを見た。
公園にはいくつかのバネの遊具と、ぶらんこと砂場があった。すっかり夜なので、子供の姿はない。しかしその代わりに、ぶらんこをゆらゆら漕いでいる男性の姿があった。その表情は穏やかで、なにか悲しいことがあってここにいる様子ではなさそうだった。ステラは気配を絶って、その男性を観察しようとした。

「こんばんは、お嬢ちゃん。そんなところでなにをしているのかな?」

男性は背を向けたまま、そう言った。茂みの中にいたステラの目が丸くなる。彼は明らかに自分に向かって話しかけているのだと直感した。

「警戒しなくてもいいよ。ぼくはきみと喧嘩する気は無いからね」
「……どうだか?お前が嘘をついていない証拠がないじゃないか」
「そう言えばそうだねぇ。それなら、ぼくはこのままきみと会話を続けるよ。目を合わせないのだから、怖くないでしょう?」
「はん、私はお前なんか怖かないよ」

ステラは堂々と男性の前に立った。彼に乗せられたような気もするが、性格上ああ言われては隠れていられなかったのだ。
男性は驚くほど綺麗な容姿をしていた。人間なら魅了されてもおかしく無いほどだ。しかしステラは彼の正体がわかっていた。だからこそ、必要以上に距離を詰めずに睨みつけている。

「おや、見ない顔だねぇ。この辺りに住み始めたのかい?」
「そういうお前はいつからいるんだ?」
「ぼくが質問してるのに……まぁいいや。ぼくはきみよりも昔からここに住んでいるよ。もう80年近くなるかなぁ」
「察するに、私達とは違うようだが」
「そうだね。ぼくはきみ達や人間と同じじゃない」

男性はにっこりと微笑みかけた。屈託のない、優しい笑顔。ステラは鼻を鳴らした。

「そうかい。それじゃ、いきなりで悪いがここから立ち退いてもらおうか。ここは私の縄張りなんでね」
「そうなのかい?知らなかったなぁ。どこまで縄張りになってるのかな?」
「この町全部だ」
「あぁ、それなら大丈夫。ぼくが住んでるのは隣町だからね」
「そうか。だったら新しい住処を見つけておくんだな」
「おっと、隣町も征服するつもりかい?それは困るな。せっかく新しい部屋を借りたのに」
「知らないよ、そんなこと。私の近くに住み始めたのが悪い」
「ぼくの方が先なんだけどなぁ……」

男性は苦笑した。かなりめちゃくちゃなことを言われているにも関わらず、ステラに敵意を示すことはなかった。何か企んでのことなのか、それとも本当に心の優しい人物なのか。ステラは彼の本心が読み切れず、苛立っていた。

「まぁ、いいよ。きみに譲ってあげる。でも、あまりオススメはしないよ」
「なんだ、恨み言か?」
「いいや、これはぼくの勘だけどね、近いうちに良くないことが起きる気がするんだ。ぼくもそろそろここを離れようかと思ってたところなんだけど、きみのおかげで踏ん切りがついたよ」

そう言うと男性はふらりと立ち上がり、ステラに向かって笑いかけながらお辞儀をした。ステラはというと仏頂面を崩さなかったが。彼は返事がないことに少しだけ肩を落として、それでも笑顔のまま夜の闇の中に消えていった。

「ふん、そんな言葉で私が今更恐れるものか」

男性の背中に向かって吐き捨てるように呟いたが、ステラは何かが引っ掛かるのを感じた。

(……まぁいい。何が起こったって、全部捩じ伏せてやるだけだから)

一抹の不安を振り切るように、ステラは自分の頬を叩いた。さぁ、早く拠点に帰らなければ。叩き起した時の同居人の驚く顔を想像しながら、彼女はいそいそと飛び立った。

 


時刻は午前二時。ほとんどの人間、草木も眠る丑三つ時。その中で、唯一明かりをつけている部屋があった。ステラが玄関の扉に手を伸ばすと、それはひとりでに開いた。

「……あ!ステラ!そろそろ帰ってくるんじゃないかと思ってたんだ!良かった〜!」

出迎えたのは、全身全霊でほっとした顔をする鬼怒谷だった。

「なんだ、まだ起きてたのか。叩き起してやろうと思ったのに」

そう言いつつも、ステラはどこか嬉しそうだった。鬼怒谷を押しのけ、靴を脱ぎ捨てて、居間へと踏み込んでいく。鬼怒谷は後から靴を揃えてやり、居間にいるステラへ声をかけた。

「なんだ、じゃないよ。今までどこにいたのさ……」
「縄張り点検だ。ほとんど雑魚ばかりだったがね。睨んでやったらすぐに退散していくような」
「そう……。でも、とにかく無事でよかったよ。お腹すいてない?夜食作ってあげようか」
「ふん、心配されなくとも私は平気だよ。お前も一日中家の中にいて安全だったろ?」

ステラが言うと、一瞬鬼怒谷は表情を凍らせた。すぐに笑って誤魔化すのだが、彼女は見逃してくれなかった。

「……おい、まさか、勝手に出歩いたんじゃないだろうな」
「え……ええと、その……だ、ね」
「ほおお、いい度胸してんな。私の約束を破ってそんなこと」
「いやその、なんていうか」

ステラの表情が見る見るうちに鬼の形相へと変わっていく。冗談抜きで。鬼怒谷は久しぶりに身の危険を感じ、慌てて叫んだ。

「ご、ごめん!どうしても必要な買い出しがあって、その……ヨーマさんが着いてきてくれたんだけど」
「はぁぁあああ!?何であいつが出てくるんだよ!どういうことだよ!」
「いたっ!ごめんお願いちゃんと話すからいたたた右脛を集中的に蹴らないで!!」


案の定ステラの雷は落ちた。だが、不幸中の幸いというか、命までは取られなかった。
ステラは机に顔を乗せて不貞腐れていた。鬼怒谷がヨーマに言われた通りに話すと、こうなった。ぶつぶつ何か言っているが、耳を傾ける勇気はなかった。
鬼怒谷はそんなステラの前に、恐る恐るどんぶりを置いた。インスタントの卵乗せラーメンだ。出来上がりたての白い湯気が麺の上で踊っている。

「……よかったら、どうぞ」
「ふん」

ステラは淡々とラーメンを啜った。しかし眉間には皺を寄せたままで恨めしそうな顔をしている。鬼怒谷は申し訳なさそうな顔をした。

「本当にごめんね。勝手に」
「もういいよ。これからもっと手懐けてやるからな」
「そ、そっか……」
「それよりも、だ。お前のそあいつと一緒だったとはいえ、大丈夫だったのか?」
「あ……そういえば」

鬼怒谷は言われて、昼間のことを思い出した。巨大な獣のような怪物に変身する、EBEであり人間である存在。彼は一体何者だったのだろうか。つい思案が進み、返事がないことを憤ったステラに叩かれてしまった。

「何か心当たりがあるんだろ。言って教えろ!」
「ご、ごめんって!言うからもう叩かないで!」

ステラの過剰な催促にいつも通りの雰囲気を感じ、鬼怒谷は安心した。思わず笑みが零れてしまうが、彼女が追撃を加えんと手を振りかざしたので慌てて首を振った。

「実は、不思議な子に会ったんだよ。初めは狼みたいな怪物で襲いかかってきたんだけど、突然男の子の姿になったんだ」
「なんだいそりゃあ」
「ステラはわからない?」
「知らないねぇ。獣みたいなEBEなんじゃないのか?」
「それが、ヨーマさんが言うには、EBEでも人間でもあるんだって……」
「ふん……あいつの見立てがそうなら、そうなんだろうな。認めたくないけど」
「へぇ……」

肩を竦めたステラに対し、鬼怒谷は好奇の目を向けていた。それに気づいた彼女がまた眉を顰める。

「……なんだよ?」
「いや、ステラって、ヨーマさんのこと本当はどう思ってるのかなって」
「あ〜?なんだよそれ。そんなの見てわかるじゃんか。私はあいつなんか嫌いだ」
「でも、信頼はしてるんじゃない?」
「そうかそうかわかったぞ。お前は今死にたいんだな」
「待って。もう聞かないからお箸で刺そうとするのやめて?」

ステラは鼻を鳴らして、ラーメンを食べ続けた。

「そっ……それはそれとして、ステラの方は何も無かったの?」
「私?何も無かったよ」
「そっか……。まぁ、何も無い方がいいよね、平和で」
「そうだなぁ」

やがてどんぶりの中は空になり、お腹を満たしたステラはごろんと布団に寝転がった。

「あー、食べた食べた。鬼怒谷、電気を消せ」
「あれ、お風呂は?」
「いらん」
「あんまり言いたくないけど、その……明日臭うよ……?」
「毛繕いくらい自分でするわい」
「毛繕いするの……?」

鬼怒谷が顔を引き攣らせて言った時、ステラは既に寝息を立てていた。余程疲れたのか、ぐっすりだった。

(そういえば、ステラが熟睡してるの初めて見たかも……)

思えば、同居を初めて以来ステラが眠っている姿自体を見た記憶がなかった。彼女は常に鬼怒谷より先に起き、彼が眠るまで活動していた。縄張りを守るためには必要な労力なのかもしれない。
鬼怒谷は無防備なステラに、そっと布団をかけてやった。自分が寝るスペースはほぼ奪い取られていたが、それでもいいと思った。気がつけば時刻は午前三時前。鬼怒谷は物音を立てないように、灯りを消しに行った。

 


ごく当たり前に次の日が始まる。
いつものように、鬼怒谷はステラと肩を並べて部屋を出た。強まる日差しと蝉の声は、何気ない通学路でありながら夏の到来を感じさせた。
席に着くと、鬼怒谷を見つけた秋色が早速駆け寄ってきた。

「おっす。おはよー鬼怒谷!」
「おはよ、秋色」
「お前聞いたか?阿久更商店街が半壊したって」
「あ……うん、めちゃ近所だし」
「原因ははっきりしないらしいんだけどさ、おそらくEBEの仕業だろうって言ってるらしいぜ。お前的にはどう思う?」
「どうって……僕専門家じゃないし」
「お前のオカルトセンスはすごいだろ?こないだの心霊スポットの件とか、解決したじゃないか。なんとなく察しとかついてんじゃないのー?」
「いや……僕は本当はオカルト趣味じゃ……」

そう言いかけた時、鬼怒谷は秋色越しに光莉を見つけた。彼女は鬼怒谷の知らない青年と一緒に歩いていた。楽しそうに話しながら。

「え……?」
「ん?どーした?」
「……なんでも、ないよ……」

秋色も振り返るが、既に通り過ぎた後だったようで、鬼怒谷が何に落胆しているのかわからなかった。そこへタイミングがいいのか悪いのか、講師が入ってきた。顔面蒼白させ、酷く息を切らしていた。その慌ただしい登場に、講義室中の学生達が怪訝そうに視線を送った。

「えー、落ち着いて聞いてください。場にいないものは、後で友達伝てに教えてあげてください。先程地元の警察から通達があり、四つの地域で怪物……EBEが出現したそうだ」

その時点で、学生達がざわめく。鬼怒谷も秋色も、顔を見合せた。

「先生、それって危険な種類なんですか?」
「わからない。だが、大型らしい。君達には申し訳ないが、今日は臨時で休講する。このまま待機しておくように。外に出るよりは、ここにいた方が安全とのことだ」
「わ、わかりましたぁ」

学生達は困惑していた。講師が居なくなると、部屋はざわめきに覆い尽くされた。これからどうするのかとか、窓から見えるかとか、予定があったのにとか、思い思いの考えや行動を起こしている。
それは鬼怒谷と秋色も同じだった。

「おいおい、休講になったのはいいけどさ、どーすんだよ。今までこんなことなかったのにさー」
「そ、そうだね。でも、大型のEBEが同時に四箇所で出てきたら、しかたないよ……?」

その時、不意に袖を引っ張られた。振り向いてもそこには誰もいない。


察した鬼怒谷は、席を立った。

「ごめん、秋色。ちょっと電話が」
「ん、おう。いってら」

鬼怒谷はそそくさと部屋を出た。と、同時に、視界の端に、先程の光莉と青年が揃っているのを捉えた。二人もまた、眉をひそめて、困ったような顔をしていた。青年の手が、光莉の頭にゆっくりと伸びていく。

「っ!!」

突然、右足を強く蹴られたような衝撃が鬼怒谷を襲った。比喩などではなく、本当に。驚いて視線を落とすと、廊下の曲がり角に隠れて、手招きをするステラがいた。
鬼怒谷は後ろが気になったが、そこから振り返る勇気はなく、ステラに従うことにした。

「呼ばれたらすぐ来い。タイムロスだぞ。タイムイズマネーというだろう」
「マネーは今関係ないでしょ……どうしたの?」
「どうしたのじゃない!お前、おかしいと思わないのか」
「そ……そうだね。光莉さんに彼氏がいたなんてこと、秋色が知らないはずないのに教えてくれないのは変だと思う」
「そうじゃないっ!大型のEBEなんてどこにも現れてないってことだ!」
「わ!ご、ごめん!……それってどういうこと!?」

鬼怒谷は上の空を振り払って、ステラに視線を向ける。彼女はいつになく、神妙な面持ちをしていた。

「まったく、何日私といるんだよ。EBEの気配くらいそろそろわかれよ」
「そんなこと言われたって、僕は普通の人間だし……」
「ともかくだ、さっきの男が言ったことは嘘だ。男が嘘をついたのか、ケーサツとやらが嘘をついたかは知らんが。これは何かの陰謀を感じる。気をつけろよ鬼怒谷」
「う、うん。でも、どうやって気をつける?このままここにじっとしてていいのかな……」

鬼怒谷は徐々に冴えてくる頭を使って、思いついたままに呟く。

「だって、待機しておけって言ったのは先生か、警察の指示だってことになるでしょ?このままここにいるのはまずいんじゃあ」
「その通りだ。デマの四つの地域ってのは、丁度ここをぐるっと囲うような位置なのだ。そこから考えると、ここにいる誰かを閉じ込めておきたいということになる」
「……まさかそれって」

鬼怒谷が気がついた時、ステラの姿はなかった。名前を呼ぼうとした直前、後ろから忙しない足音が聞こえてきた。

「あ!鬼怒谷!電話大丈夫か!?」
「う、うん。今終わったとこだけど……どうしたの!?」

走ってきたのは秋色だった。片手にスマホを持って、荒く息を吐いている。

「お前の、繋がるのか!?」
「え?」
「さっきからおかしいんだよ。電波障害で、ネットも電話もできやしないんだ。メッセージもだぜ!」
「なんだって……!」

いよいよ、ステラとの話が現実味を帯びてくる。存在を増してくる緊張感の中、秋色が不意に声を上げた。

「あれ?あいつ誰だろ」

そう言った視線の先には、人影がポツリと廊下に立っていた。小さくはない。少女でもない。でも確かに、人の形をしていた。

「あ……あの子!」

鬼怒谷は見覚えがあった。紫色の服を着た、茶髪のオッドアイの少年。印象深いだけでなく、昨日あったばかりの姿を忘れるはずはない。
少年……ウルリは、鬼怒谷を見つけると、少し驚きつつ嬉しそうに走ってきた。

「なんだ?外から来たのかな」
「よう!また会ったなぁ!そっちのお前は誰だ?」
「あー、こっちは僕の友達の。って、なんで君がここにいるんだよ?まさかさっきの話って……」
「え?でかいEBEの話か?あっ、いや、それはオレと関係ないよ!全然別々!」
「なるほどなあ。多分騒動に巻き込まれて来たんだろ。運が悪かったなぁ」
「まぁ、そんなもんかなー?んで、オレさ、お前に聞きたいことがあるんだよ!」
「僕に?」

ウルリは元気よく頷いた。何となく嫌な予感がして、鬼怒谷は身構える。

「あ、別にお前になんかするつもりないから大丈夫だぞ。オレが用があるのは、お前と一緒にいる小さいのの方だよ!」
「……!」
「名前はステラって言ってー……知ってるよな?」

満面の笑みで告げるウルリ。対照的に、鬼怒谷の表情が凍る。この状況の意図に、気づいてしまったのだ。
この少年はステラを探している。この状況を作ったのは、この子だ。そう、直感した。

「黙ってないで教えてくれよ。それとも、心当たりあるから言わないのか?人は後ろめたいこととかあると黙るって、ディグが言ってたんだよなー。お前もそうなのか?」

ウルリの質問は続く。彼の目は純真だったが、はっきりと確証を持っていた。僅かな躊躇いも含んでいたが。
鬼怒谷は、黙って、黙って、黙った果てに、ゆっくりと首を振った。

「あれ?し、知らないのか?そんなはずないと思うんだけど」

ウルリは驚いた顔をする。それも心底から。くるりと背を向け、小さな声でぶつぶつ言い始める。いやでも確かに、と何度も繰り返して、ちらりと振り向く。

「……ほんとに?嘘じゃない?」

頷き返してやると、ウルリは頭を抱え出した。

「あっれぇー!?お、おかしいな。確かにそうだと思ったんだけどなー!」
「ご、ごめんね。知らなくて」
「いや、いいんだよ。こっちこそ巻き込んじゃってごめんなー」

ウルリは素直に謝罪を述べた。その様子が、本当に申し訳なさそうだったので、鬼怒谷も反射的に謝った。
だが、ウルリはハッと何かを思いついたらしく、すっくと立ち上がった。

「そうだ!良いこと思いついたぞ!」
「え?なに……何すんの!?」
「今からじぞ……じぞうちょー、事情聴取するんだぞ!他に知ってることを洗いざらい吐いてもらうんだ!」
「うわっ!!」

ウルリは突然鬼怒谷を捕まえ、荷物でも扱うかのように軽々肩に担ぎあげた。唖然とする秋色を放置して、ウルリは目の前の窓を明け放す。ここは3階だ。

「ちょ、ちょっと待っ……!!」

ウルリは窓から飛んだ。下にはクッションになるようなものは一切なかった。だが、彼は平然と着地を決め、ひょいひょいと敷地内を爆走した。

「ど、どこに連れてく気!?」
「えーとな、とりあえず、その辺の公園とか?ELIOに持って帰ったらディグにバレるし」
「君は、ELIOの人なのか!」
「そうだぞ!けど、内緒で来てるから、言わないでくれな!」

人間とは思えない身体能力で、ウルリは塀を超え、家屋を超え、ぐんぐん大学から離れていった。
彼があるビルの屋上にたどり着いた時、目の前に向かって何か飛んでくるのに気づいた。しかし難なく片手でそれを捉える。手のひらの中にあったのは、小さな石だった。

「ん?誰だ?」
「私だ」

そう言って立ち塞がるのは、肩を怒らせ眉間に皺を寄せたステラだった。

「……あ!ほんとだ、ステラだ!やっと見つけた!」

ウルリは嬉しそうに笑った。鬼怒谷を降ろし、彼女の元へ走る。だが、ステラは警戒心を顕にし、近づかれると同時に素早く後ずさった。

「それ以上来るな。お前の狙いはわかっている。こんな姑息なことをする頭なんてないと思っていたけどね」
「あはは、そりゃそうだよ。オレだって本当は、ステラと友達でいたかった。けどな、それがダメだっていうんで、悪いけど、オレは今からステラを捕まえなくちゃいけないんだ」
「指示をしたのは誰だ?お前にそう言ったのは」
「ごめんな。秘密にしてろって言われた。だから言えない!」
「……そうか。だったら私はお前を……殺すしかないな」
「……だよね」

ステラとウルリは暫く睨み合っていた。だがその数秒後、糸が切れたように二人は接近し、拳を交わして激しい殴打戦を開始した。それは鬼怒谷が目で追えるようなものではなく、お互いの怪物性と本気を感じさせた。


しかし今度のステラは容赦がなかった。ステルス化した触腕を鞭のようにしならせ、防御のないウルリの横腹を打ち据える。見えないものに弾き飛ばされ、驚くウルリ。吹っ飛ばされた勢いのままコンクリートの床を転がり、距離をとった。かなりのダメージが入ったのか、苦しそうに顔を歪めている。

「首を差し出すのなら今のうちだぞ。私は手加減できるほど甘くない」

ステラは言い放ち、悠々と距離を詰める。その目は、鬼怒谷が彼女と初めて会った時に見た、冷酷な色で染まっていた。
ウルリは、傷ついた身体を庇い、ビルから飛び降りた。

「ふん、怖気付いたか……!」
「あ!ステラ待って!」

その後をステラが追う。鬼怒谷が止めようと咄嗟に手を伸ばしたが、届かない。

「ステラ!!」

鬼怒谷は叫んだ。とても嫌な予感がしていた。彼女を追わせてはいけないような。しかし幾ら叫んでも、ステラは振り返らなかった。彼女の頭の中は、怒りと、必ず仕留めてやるという意思でいっぱいだった。

 


 路地を抜け、人混みを抜け、獲物の姿を追う。手負いながら、ウルリはすごいスピードで走り続けていた。やがて景色は市街地から住宅地へ、住宅地から林の中へと移り変わる。ウルリはそこで足を止めた。自分を追ってくるステラに対し、突然振り返ると、身体を大きく隆起させた。
見る見るうちに獣の頭を持つ、巨人の姿に変わる。ステラは一瞬驚いたが、すぐに身構え直した。

「やっぱり、人間じゃなかったようだな」
「俺はちゃんと人間だよ!この格好はまぁ……特殊能力みたいなもんだ!」
「そんな化け物になるような人間がいるかっ!」

ステラは空中で回転し、その勢いを利用して鋭い蹴りを繰り出す。ウルリはそれを受け止めるが、衝撃で後ずさる。巨体を押し込むほどの威力。しかし彼は堪えていない。
ステラはウルリの腕を足場にして飛び上がり、今度は頭上からのかかと落としを繰り出した。目に見える挙動に、ウルリは防御を試みる。だが、ステラの攻撃が届く前に見えない衝撃が彼の頭を叩き落とした。

「ぐあッ!!」

これは幾らかダメージがあったらしく、ウルリが声を上げた。片手で頭部を押さえ、もう片方の手を激しく振り回す。ステラは避けたが、強い風圧に当てられ近くの木にぶつかった。

「ちっ……!」

地面に落ちたステラを、ウルリの拳が襲う。ステラは寸でのところでそれを避けるが、恐ろしいスタミナが彼に休むことなく殴打を続けさせた。
辺りは次第に激しい地鳴りと土埃で立ち込め、ウルリの巨体もその中に飲み込まれた。

(くそっ……どこに行った!?)

感覚を研ぎ澄ますが、何の気配もしない。微かに聞こえるのは枝と木の葉がざわめく音だけだ。
その時、頭上にちらつく影があった。ステラは咄嗟にそれを攻撃した。それはへし折られた木の一部で、彼女の一撃で粉々に砕け散った。しかし、代わりに隙を作ってしまう。土埃の中から太い巨体な手が生え、ステラを捕まえた。

「ーー!!」

地面に思い切り叩き付けられる。衝撃が亀裂を生み、小石が弾けた。ステラは逃れようともがくが、それ以上に強い力でウルリが押さえつけてくる。

「はぁ……はぁ、どうだ!もう動けないだろ……!」

額から血を流して、ウルリが言う。

「何回か、気づけない攻撃があった……たぶんそれ、お前の、特殊能力ってやつだろ?やっとわかったよ。お前が人間じゃないこと」
「だとしたら、私をどうするつもりなんだ?」
「そりゃ、お前を捕まえて……あれ?どうすんだろーな。捕まえろって言われたけど、そっからは知らないや……」
「はぁ、やっぱりお前とは話にならないな」

ステラは嘆息した。

「……おい。お前に指示をした人間について教えろ。私が直接殴り込みにいく」
「え!?で、でもそれは言えないぞ……秘密にしろって言われたからな!」
「言わないんなら、このままどうするんだよ?何をするかわかってないんだろ」
「うっ……確かに……」

ウルリの目が困惑し始める。本当にどうすれば良いか、わからなかったのだ。

「なぁ、オレはどうしたらいいんだろ?お前を逃がすわけにもいかないし、このままにもできないし……オレだけじゃわかんないよ……」
「知らないよ、私に聞くんじゃない」
「でもお前にしか聞く相手いないしー」
「お前を唆したやつにでも聞けばいいだろ」
「それをすると皆にバレるし……」
「なんなんだよ!さっさと決めろよ!あぁぁなんか腹立ってきた」

ステラはウルリの手に噛み付いた。怒りに任せて結構強く噛んだのだが、彼は顔を顰めるだけで力を弛めることはしなかった。

その時、林の奥からいくつもの影が迫ってくるのが見えた。影はウルリの周りを取り囲むと、鈍色に光る銃口を向けてきた。

「な、なんだ!?」

ウルリが叫ぶと、影の中の一つが銃口を下ろして、近寄ってきた。

「その声は、被験体16番だな。今までご苦労だった。後は我々に任せなさい」

ヘルメットでくぐもった声が言う。彼は頭からつま先まで完全武装した人間だった。その背中には、白い文字で「ELIO」とプリントされていた。
この男はリーダーらしく、指を振ると周りにいる部下達がはきはきと動いた。彼らはウルリの手の中にいるステラに向かって銃口を突きつける。

「こちらコード、ブラボー。ターゲットを確認、直ちに収容する。拘束具と麻酔薬を急げ」
「ま、ま、待ってよ!こいつのことは皆に秘密なんだぞ!なんで……!」
「我々は所長直々に司令を頂いている。心配することはない、事情は全て知っている」
「え……」

その時、ウルリの手からステラが抜け出した。彼は思いもよらぬ展開に油断していた。その隙に、ステラは空へ飛んだ。

「逃げた!撃て!」

誰かが叫んだ。幾つかの銃声が林中に広がる。そのうちの一つがステラに掠り、彼女はバランスを崩して木にぶつかった。すぐさま落下地点へ武装職員達が急行し、取り押さえられてしまう。

「くそ!離せ!!」

地面に押し付けられながら、ステラが怒鳴る。ウルリとの戦いで体力がすり減っていたらしく、拘束の手を振り解けなかった。


その直後である。

 

何度か再び発砲があった。
それはステラに向けられたものではなかった。見上げると、ウルリの身体が縮こまっていくのがわかった。彼はその場に踞る。押さえた手の隙間から、赤いものが滴っている。

「え……え……?」

ウルリが困惑した表情でそれを見る。拳銃を向けてくる男性の姿を。

「本当にご苦労さま。休んでいいよ」

そう、にこやかに告げたのは柚羅だった。彼は硝煙を吹いて、拳銃を仕舞う。

「なん……で、ここに……?」
「君がしくじると思ってね。捕まえてくれたのはちょっと予想外だったよ。そこは素直にありがたかった……ありがとう、アートゥームくん」
「オレ……撃たれ……」
「いずれ処分するつもりだったんだよね。共倒れしてくれればよかったのに」

柚羅は淡々と告げた。彼が職員に何かを言うと、彼らはウルリを運んだ。そして、先程の戦闘の際にできた大穴のひとつへと投げ込んでしまう。

「なるほど、これが文字通りの……墓穴だね。ははは」

柚羅は笑った。その笑い声はどこか無機質で、違和感強いものだった。彼は浮き足立ちながら、ステラの方へやって来た。
近くでしゃがみこみ、視線を交える。ステラは食い殺さんばかりの強烈な睨みを返した。しかし柚羅は怯える様子なく話しかけてきた。

「やっと見つけたよ。今はステラと呼ばれているんだってねぇ。その目は、昔と変わらないな……楽しかったかい?自由は」
「いけ好かない奴だ。お前があいつに指示をしたな」
「その通り。彼は誰かに指図を受けないと何も出来ない従順な良い子だったよ。頭は良くなかったけどね」
「殺したのはそんな理由か?」
「いや?これはただ、お役御免ってやつさ。安心したまえ、君も後で彼のところへ行けるから」

柚羅は微笑んだ。邪悪に歪んだ笑みだった。
彼が立ち去ると、代わりにステラの前に現れたのは仰々しい鎖と錠。

抜け出そうと暴れたが、首筋に鋭い痛みが走って、彼女はやがて意識を消失した。
 

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