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​#8 星のいない日

その日は何事もない、平和な一日になるはずだった。
今朝、起きがけにステラが「出かけるところがあるからお前今日は留守番な!」と言って出ていった。珍しく彼女の監視の目が無くなるので、久しぶりに落ち着ける……はずだったのだが。

鬼怒谷は久々に部屋の中を掃除した。ステラが掃除機の音を嫌がるので、ここ最近散らかりっぱなしだったのだ。広げられたままの布団を畳み、しわくちゃの衣類を片付け、隅に溜まった埃を集め、ついでに模様替えなんかもしてみる。
短時間の整頓だったが、部屋は見違えるようになった。鬼怒谷はさっぱりしたスペースに寝っ転がり、大きく伸びをした。まるで以前の生活に戻ったような、安穏とした時間を感じる。逆に普段の生活がいかに苛烈だったかを改めて実感した。
鬼怒谷は不意に窓の方へ目がいった。そこはステラが来てからずっと締め切られたままだった。

(そうだ、ついでに空気の入れ替えもしよう……)

鬼怒谷はふらっと立ち上がり、カーテンを掴む。それがシャッと勢いよく、軽快な音を立てて開かれた先。
窓ガラスの向こうに、ヨーマが立っていた。彼の赤い瞳と目が合う。鬼怒谷は咄嗟にカーテンを閉めた。

「え……え?」

何が起こったのか一瞬判断がつかず、動けなくなる鬼怒谷。やがて状況が飲み込めた時、彼は一呼吸置いてから頭を抱えた。過去の一悶着が蘇り、頭が痛くなった。
いや、そうだ、これは幻覚かもしれない。見間違いだ、そうに違いない。久しぶりに舞い込んだ休暇だというのに見計らったようにトラブルがやってくるなんてあるわけがない。


鬼怒谷は考えることで気持ちを落ち着かせ、意を決してもう一度カーテンを開けてみた。
しかし、そこにはやっぱりヨーマがいた。思わずげんなりした表情を浮かべた鬼怒谷を、不思議そうに見ている。

「どうかしましたか」
「あ、いえ……なんでもないです、はは……」

鬼怒谷は絞り出すように返事をした。今日も一筋縄では行かない一日になりそうな予感がした。

 


鬼怒谷はヨーマを部屋に上げることにした。彼の目を見た時、放っておいても帰ってくれないと察したためだ。このままベランダで立ち往生されて、近所に変な噂を立てられるのは避けたかった。
招かれたヨーマは意外にも礼儀正しく、上がる際には靴をきちんと揃え、テーブルの前に座る時は綺麗な正座をしていた。その素行に対し鬼怒谷は素直に、誰かさんに見習わせたいと思った。

「ええと……それで、今日は、どうして来られたんですか?」

鬼怒谷はお湯を沸かしながら居間にいるヨーマに話しかけた。彼は少し俯いてから、言葉を探すように話した。

「少し、貴方と話がしたかったのです」
「僕、ですか?」
「貴方は変わっています」
「……」
「悪口ではないです。貴方は他の生き物とは違うという意味です」
「はぁ……」

話の合間にインスタントコーヒーが出来上がる。恐る恐る鬼怒谷がテーブルにそれを置くと、ヨーマは興味深そうに眺めた。

「あ、ブラックダメだったら言ってくださいね。砂糖とかありますから」
「これは……泥水ですか?」
「いや、コーヒーです」
「失礼しました。せっかく持ってきてくださったのに」
「あ、気にしないでください!僕も最初は飲み物って信じられませんでしたし!」

鬼怒谷が慌ててフォローを入れたが、ヨーマはまるで無反応であり、短く「そうですか」とだけ呟いて会話が終わった。
同時に発生する重い沈黙。まるで友達の友達と二人きりになった時のような複雑な状況だ。

(うう、この空気はきつい……)

鬼怒谷は考えを巡らせ、この沈黙を打破する方法を必死に探した。元来人付き合いが得意な方ではない鬼怒谷にとって、正直ステラと一緒にいる時より苦しかった。なんとか場を取り持とうと思えば思うほど、焦りが頭を支配して、言葉が出てこなくなるのだ。
鬼怒谷がまごついていると、突然ヨーマが顔を上げた。

「本題をお伺いしてもいいですか」
「あっ!は……はい!お願いします」

唐突だったので鬼怒谷は声が裏返ってしまう。しかしヨーマはまた何の反応も示さず、淡々と話し続けた。

「ステラと初めて出会った時のことを覚えていますか」
「は、はい。初対面で殺されかけましたし……」
「そうですか…昔は優しい子だったのですけど」
「そうなんですか?」
「はい。孤立していた僕とよく一緒にいてくれましたから」

ヨーマは昔を思い出すように目を閉じ、静かに言葉を繋げた。

「あの子が変わってしまったのは、きっと誘拐されて以降です。僕らは僕ら以外の生命体に侵略を受け、離れ離れにされました。僕と同じ道を歩まされていたとするのなら、兵器として利用されていたんだと思います」

兵器。その言葉を聞いて、鬼怒谷は真っ先に生物兵器を連想した。確かにステラの力は圧倒的だった。その真価は、丘の上で繰り広げられた激闘で嫌という程見せつけられている。丘を更地に変えるほどの戦闘能力。納得であった。

「あの子はその中で、酷い扱いを受けていたんだと思います。戦いの傷、過酷な環境、実りのない生活。だから、あんな性格になったのでしょうね」

ヨーマは感情のない調子で話していたが、その赤い瞳はいつの間にか黒く沈んでいた。鬼怒谷に目を合わせる勇気があったのなら、震え上がっていたことだろう。

「……ヨーマさんは、ステラのことをとても大事に思っているんですね」

鬼怒谷はぽつりと口を挟んだ。それを耳にした、ヨーマの瞳が揺れる。

「その通りです。僕にとってあの子は……貴方がたの言葉で言うと、憧れというものですから」
「僕も、最初こそ怖かったけど、最近は違うんですよ」
「違う、というと」
「なんというか、その……EBEに出くわしたりした時とかはすごく頼もしいんですけど、話してる時とか生活してる時とかは、放っておけない感じがするんですよね。一緒にいればいるほど、あらが見えてくるっていうかっ……あ!別に貶してるわけじゃないですよ!?」
「いえ、それは僕もわかりますから、身構えなくても大丈夫です」

肩をびくびく震わせる鬼怒谷が滑稽だったのか、それとも話題に共感したからなのか、ヨーマは初めて、ほんの僅かだが表情を弛めた。彼の微かな感情の変移を垣間見て、鬼怒谷も漸く打ち解けられる兆しを見つけた気がした。

「鬼怒谷さん」
「なんですか?」
「もし差し支えなければ、普段のあの子がどんな生活をしているのか教えていただけませんか」
「あ、はい。僕の話で良ければ……」

鬼怒谷はコーヒーを一口啜った。緊張ですっかり喉が乾いていたのだ。この瞬間、苦い味が口の中で広がる。ヨーマもそれを見習ってか、コーヒーのカップを口元に運んでいく。

「……苦いですね」
「あ!さ、砂糖ありますので……ミルクも!入れます?」
「いえ、このままで結構です。お気遣いありがとうございます。これは不思議な飲み物ですね」
「コーヒー初めて飲むんですか?」
「よく広告などで見かけはしますが、口にしたのは初めてです。たぶんステラは気に入らないでしょうね」
「……全くその通りです」

鬼怒谷は苦笑した。
初めはどうなる事かと思ったが、ヨーマとの会話はわりと順調に続けられた。言葉を選ぶこともあったが、嫌な緊張感は殆ど薄れてしまっていた。ステラの話をする時、そして聞く時のヨーマの表情は、とても素直で穏やかなものであったから。

 


不意に時計を見た鬼怒谷は、しまったという顔をした。直後それに気づいたヨーマが、怪訝そうに瞬きをする。

「どうかしましたか」
「あっ……いえ……もうお昼なんだなって思って。でも、食べるもの何もなくって……どうしようかなぁ……」
「調達に行かないのですか?」
「そうしたいのはやまやまなんですけどね。ステラがいないうちは、単独行動ができないんですよ……」
「そうですか……」

ステラは未だ、帰ってきていない。本来ならば今日ステラと共に買い出しに行くつもりだったのだが、彼女に留守番を言い渡された以上、留守番に徹するしかなかった。
ヨーマは口元に手を当てている。少し思案するような素振りをして、彼は赤い瞳を向けてきた。

「よければ、僕がお供しましょうか」
「……えっ」

予想しなかった提案に、鬼怒谷は思わず目を丸くした。彼の反応に対してヨーマは迷ったような表情になり、迷惑でしょうか、と言う。

「い、いえ、迷惑じゃないんですけど。ていうか逆に心強いっていうか……!」
「それならよかったです。行きましょうか」

ヨーマはすうっと立ち上がり、靴を持って玄関へ歩いていった。鬼怒谷はそのスムーズな行動に呆気に取られ過ぎて、ぽかんと口を開けた。だが、すぐにハッとして我に返り、慌てて後を追う。

「ま!待ってください!それも……!それもまずいです!」
「なぜですか」
「だ、だってステラは、その……あ、あなたのことを」
「嫌っていることですか?僕は気にしていませんよ」
「いや僕が気にするんです!い、一緒にいるってバレたら、吹っ飛ばされるんじゃないかと……!」
「心配しないでください。怒られたら謝るだけですから。それにもし、貴方に怒りの矛先が向いたとしても、僕が無理矢理着いてきたと言えばいいのです。貴方に迷惑はかけませんから」
「は……はぁ……」

どういう風の吹き回しだろうかと、一瞬裏があるのではと勘繰ってしまうが、ヨーマは終始あの穏やかな表情をしていた。とても腹に一物抱えているようには見えず、せっかくの申し出を無下にも出来ないので、鬼怒谷は不安に思いながらも彼の同行を受け入れることにした。

商店街に出る頃には、時刻は昼下がりになっていた。休日ゆえに人取りはいつもより少し多く、賑わっていた。
ここまで来て鬼怒谷は、ふつふつと気恥しさを感じ始めていた。というのも、これは概ね同行者のせいである。端正な顔立ちに、鬼怒谷をゆうに超える長身で、全身真っ黒な衣装を着ているというヨーマのルックスは嫌でも人目を引いたのだ。通りがかる人々に好奇の目を向けられるのは、ステラといる時とはまた違った緊張感を生み出した。
そんな鬼怒谷に対して、やはりヨーマは凛とした表情のまま歩いていた。

「鬼怒谷さん。どうかしましたか」
「い、いえ、大丈夫です!早く行きましょう!」
「視線が気になりますか」
「あっ……や、やっぱりわかるんですね」
「僕も気になっていますから。しかし、敵対的なものではないので緊張しなくとも大丈夫ですよ」
(そういう問題じゃないんだけどね……)

鬼怒谷は愛想笑いを零した。
そうこうしているうちに、二人は目的のスーパーに辿り着いた。
必要なものを籠に入れ、精算する。そこまでの流れの中では特に会話が交わされることはなく、鬼怒谷は再び気まずさを感じつつ、ヨーマはやはり淡々とした様子でスーパーを出た。

「さ、さて!後は帰るだけですね!行きましょうか」
「はい」

家に向けて踏み出しかけたその時、ヨーマの表情が鋭く張り詰めた。鬼怒谷は驚いて彼の視線を追うが、その先に何かを捉えることはできなかった。

「どうしたんですか?」
「……敵対的な気配を感じます。僕の後ろへ」

そう言った直後、ヨーマは右手を振るった。瞬間、眼前に赤黒い金属質の壁が出現した。そこへ激しい衝突音と衝撃が走り、鬼怒谷は生じた風圧に怯んだ。

「うわぁぁ!?」

吹き飛ばされそうになるが、ヨーマに掴まれ、なんとか踏みとどまる。辺りには粉々になったコンクリート塊が散らばり、周囲は悲鳴と混乱に湧き、人々は叫びながら走り去っていった。

「ななな、なん……!!?」
「大丈夫ですか、鬼怒谷さん」
「お、お陰様で怪我は無いですけど!また何か出たんですか……!?」
「はい。ですが、これは……」

言葉を切り、すぐさまヨーマは指先から金属の糸を飛ばした。それは視界の先へ真っ直ぐに飛んでいく。ヨーマは微かに顔を顰めた。

「鬼怒谷さん。申し訳ないのですが、やはり少しばかり迷惑をかけます」
「え……え?」

鬼怒谷が答える前に、ヨーマは既に臨戦態勢を取っていた。煌々とした赤黒い糸が手の中で絡み合い、瞬時に一振の大刀を成す。
その時、商店街の奥から、山のように巨大な影が地鳴りを上げて近づいてくるのが見えた。それは、獣のような頭を持っていて、丸太のような筋骨隆々の四肢でアスファルトを砕きながら吠えていた。
ヨーマは空いた方の手からその怪物に向けて、赤黒い金属の矢を飛ばした。獣の怪物は高く跳躍してそれを避け、そのままの勢いで二人の頭上へ巨体を落としてきた。

「うわあっ!!」

鬼怒谷はヨーマに引き摺られる形で怪物の攻撃を避けた。あまりに強い力で引っ張られたので肩が軋む。だが休めている暇はなく、怪物は身を翻し岩のような拳による殴打をしかけてきた。
ヨーマは顔色を変えず、その攻撃を的確に受け流していく。その度に起こる拳と大刀の接触が、辺りに激しい衝突音を響かせる。その中に鬼怒谷の絶叫が混じり、凄まじい光景となっていた。
怪物の方は、諦める気配が全くなかった。底無しのスタミナなのか、威力衰えることなく攻撃が続く。このままだと地形まで変えてしまいそうな勢いだった。


埒が明かない。そう確信したヨーマは、怪物の攻撃をいなすと同時に足元から金属質の根を張り巡らせた。それは素早く怪物の足へ伸び、暴れる隙も与えずまとわりついていく。だが、根が巨体を覆い尽くす直前、小さな影が中から飛び出した。影はヨーマの眼前に着地すると、彼の得物を叩き落とした。目の前にいたのは、茶色い髪の少年だった。

「……!」

ヨーマは牽制を繰り出すが、少年は弾けるように飛び退き、距離を取ってきた。

「……貴方でしたか」

ヨーマは嘆息する。その少年の姿は見覚えのあるものだったから。
逆立つ茶髪に赤と黄色のオッドアイを持つ……ウルリだ。見間違えをするほどに、こんな風貌を持つ者は他にいないだろう。彼は獣のように四つん這いで地面に張り付き、荒い呼吸で、背中を大きく隆起させていた。

「し、知り合いなんですか?まさか、また新しいEBE……」
「彼は人間です。しかし、完全な人間ではありません。貴方方の言うEBEというものでもありません」
「それって、どういう……?」
「僕にもよくわかりませんが、恐らくどちらでもある、という生物です」

ウルリは獣のような唸り声を上げて、飛びかかってきた。迎撃しようと構えるヨーマだったが、直前にウルリの身体が大きく膨れ上がるのを見た。その隙にウルリの拳がヨーマに届く。鈍く、重い衝撃がヨーマを吹き飛ばす。

「やはり、あの時排除しておくべきだった」

立ち並ぶ店の壁のひとつに背中から打ち付けられたが、ヨーマは何事も無かったように立ち上がり、埃を払った。彼は反撃として片足を踏み込み、そこから再び金属の根を走らせた。根はウルリを捕らえようと進むが、彼は身体を伸縮させつつ縦横無尽に飛び回り、回避してしまう。
その渦中にすっかり巻き込まれた鬼怒谷は、飛び火がかからないよう必死に這いずり、小さな路地の隙間に隠れた。


人間であり、EBEでもある生物。ヨーマの言葉を補完し、反芻する。異種族交配やミュータントといった類の話は創作の中でしか聞いたことがなかった。まさか現実にいるなどとは。鬼怒谷はステラとの共同生活で幾らかそういうことには慣れてきたつもりだったが、今回ばかりは驚愕する他なかった。

「ウゥゥー!!」

ウルリは目を血走らせながら突進を繰り返す。至極単調で分かりやすい戦法ながら、彼の一撃一撃は壁にめり込み、人間の限界の何倍もの速度で放たれている。相手がヨーマでなければ、とっくに勝負が着いているだろう。対するヨーマはというと、表情に疲弊の色はなく、ウルリのスピードに難なく追いつき攻撃を全て受けきっている。戦況が把握できない鬼怒谷でも、どちらに軍牌が上がるのか薄々予想はついた。

「くそっ!さっさとやられろ怪物っ!」
「怪物は貴方でしょう」
「オレは人間だっ!」

ウルリは懇親の一撃を繰り出そうと腕を回した。だが、一際大きな所作は格好の隙となる。見逃さなかったヨーマは、ウルリの鳩尾目がけ掌底を放った。

「ーー!!」

ウルリは弾丸のように真っ直ぐ吹き飛んだ。壁に激突しめり込んだ後、がくりと地面に落下する。すぐさま彼は立ち上がろうとしたが、身体は思いもよらないダメージに痙攣し、上体を起こすだけで精一杯だった。
そこへヨーマが足早に接近する。手の平に金属の剣を再製させながら。

「うぅっ……!」

ヨーマの剣がウルリの首に当てられた。ウルリの目は未だ闘志を燃やしていたものの、これから起こることを察知したのか徐々に恐怖の色を滲ませ始める。

「そのままじっとしてください。そうすればなるべく苦しまずにしてあげられますから」
「う……うぅ、嫌だ……死ぬの、嫌だ……!」
「僕も殺すのはしのびないです。ですが、貴方は殺さなければならない」
「嫌だよ……助けてくれよお……」

ウルリは泣いていた。先程の怪物性は嘘のように失われ、今いるのは嘆願するただの人間の少年だった。それを見たヨーマは、淡々と大刀を振り上げた。

「ま、待って!!」

鬼怒谷が駆け寄り、ヨーマの腕を掴んだ。

「鬼怒谷さん。どうかしましたか」
「や……やめてください。もうそれ以上は……」
「何を言っているのかわかりません。彼は僕らの邪魔になる存在です。これは必要な排除です」
「で、でもまだ子供ですよ!」
「貴方は病気が発生するまで身体に入った病原体を見逃しますか?そんなことはしないでしょう。これは貴方を守るためのことなのですよ」
「そう言ったって……」

ヨーマは再びため息をついた。振り上げた得物を下ろし、鬼怒谷と目を合わせる。ゾッとするほど深く沈んだ赤い瞳が見据えてくる。

「人間の考えはわかりかねますので非情に聞こえるかもしれませんが、彼は明らかな敵意を持って襲いかかってきました。僕が何もしなければ、彼に殺されていたでしょう。ここで放っておいたとしても、彼はまた殺しに来ます。だからそうされないために、排除しておくのです。僕もできれば命を奪うことはしたくない。しかしこうなってしまった以上は、必要な行動に変わります。僕は何かおかしいことを言っていますか」

ヨーマははっきりと強い意志を持っていて、話す言葉にそれが表れていた。これに対して、鬼怒谷は彼を納得させられる返答が見つからず、黙ってしまった。返事がないと悟ると、ヨーマは再度ウルリに向き直った。ウルリは悲鳴をあげた。

「や、やっぱり待ってください!」

鬼怒谷は二人の間に割って入った。ヨーマを納得させられる答えを見つけたわけではない。彼の目的に賛同する勇気もない。その代わりに、ウルリを庇うように立ち塞がっていた。ヨーマは顔を顰めた。

「どうしてそのようなことをするのですか。貴方に僕を止める理由はないでしょう」
「そ、そうです。理由なんてないです!でも、僕は、ヨーマさんの行動に見て見ぬふりなんてできない……!」
「……それが答えということですね」

ヨーマは、剣を消した。冷たい表情はそのままだったが、彼はウルリに向けて視線を送る。

「どうして、貴方もステラも、彼を生かそうとするのか。僕もそれを理解したい。生かす意味を知りたい。なので、今回も何もしないことにします。ですが、よく覚えておいてくださいね。僕一人の時に再び現れるつもりなら、今度は容赦しませんよ」

ヨーマは鬼怒谷に、そろそろ行きましょうか、と言った。何事も無かったかのように、彼の口調は穏やかで落ち着いたものに変わっていた。ウルリに対する忠告も、親が子へ向けて言い聞かせるような優しいものだった。だが、次はない、と確信させられる気迫をちらつかせつつ。それを感じ取ったウルリはすっかり萎縮していた。

「大丈夫?立てる……?」

鬼怒谷はそんなウルリに手を差し伸べた。ウルリは少し警戒した顔色を見せたが、おずおずと手を乗せてくる。ぎゅっと掴まれる。凄い力だった。驚いたことに、彼はすんなり立ち上がった。怪我はまだ生々しいものの、機動性に問題は無い様子だ。ウルリは鬼怒谷に顔を見せて、満面の笑みを浮かべた。

「ありがとな!」

それは先程の剣幕を払拭するような、底抜けに明るく人懐っこい笑顔だった。しかしウルリはすぐに手を振り解き、商店街の奥へ走り去ってしまった。鬼怒谷は反射的に手を伸ばしていたが、ヨーマがそれを制する。

「これ以上干渉する必要はありません。帰りましょう」
「あ……はい」

遠くの方でサイレンが鳴っている。徐々に騒ぎを聞きつけた人間が集まってくるだろう。ヨーマに連れられて、鬼怒谷は逃げるようにその場を後にした。

人目を避けて薄暗い細い路地を通りながら、鬼怒谷は前を行くヨーマに話しかけていた。

「……すみません」
「何がですか?」
「あの……」

話しかけておきながら、次の言葉を躊躇う。先程の行動が正しかったのか、今になって自信がなくなっていた。人殺しの光景を見るのが単に嫌だったこともある。それははっきり言えば、ヨーマに逆らい、ウルリのためとも思わなかった自分のエゴ。それを押し通したことが、なんとなく、彼を複雑な気持ちにさせたのだ。

「……貴方は優しい人ですね」

ヨーマは振り返らず、言った。相変わらず淡々とした声だった。鬼怒谷は顔を上げる。

「先程のことを引き摺っているのなら、早く忘れてください。正しい選択があったのではと悩むのは、貴方が優しいからです。貴方はそのままでいた方がいいと思います」

ヨーマは振り返った。口角に僅かな笑みを宿して。

「……そう、ですか」

言葉を受けた鬼怒谷は、たどたどしく返事をする。しかし、心根では、幾らか気持ちが救われたような気がした。


それから部屋に戻ったのは、一時間後のことだった。人目を避けるルートを選んでいったために、普段より時間がかかってしまったのだ。ヨーマは鬼怒谷を送り届けると、ステラと鉢合わせると迷惑をかけると言って去っていった。本当に誰かさんに見習わせたい謙虚さである。
だが、日が落ちてもその誰かさんが帰ってくることはなかった。

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