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​#2 日常に潜む影

遠くから聞き慣れた電子音がする。
鬼怒谷は目を閉じたまま、その音源を手で探った。しかしどれだけ伸ばしても手に触れるものは何もない。


「...?」


重いまぶたを開いて、身を捩る。気がつくとそこは玄関だった。


「なんで...?」


まだ寝ぼけたまま、身体を起こす。足は完全に玄関の敷居の外に放り出されており、おそらく無理な体勢で寝ていたせいか、動くと節々が悲鳴をあげた。
春先とはいえまだまだ冷える時期、疑問符だらけの頭で震えながらリビングに入ると、そこには凄惨な有様が広がっていた。
散らかった本や紙くず、しわくちゃにされた布団、目まぐるしく変わるテレビのチャンネル、そしてテーブルの上に座った少女の姿。
それらを順番に見た後で、ようやく頭がはっきりしてきた。


「ど...どうなってんの?」


震える声で言う鬼怒谷。少女は視線はテレビの画面を凝視したまま、リモコンのボタンを押しまくっていた。


「馬鹿だなぁ。見てわからないのか?」
「見てわからないから聞いてるんですけど...」
「この機械のこの部分を押すと、あれと連動してるのか映像が変わるんだ」
「それはわかるよ。そうじゃなくて、どうしてこうなったかって聞いてんの!」
「はぁ、まさかもう約束を忘れたのか?」


少女が初めてこちらに顔を向ける。その声はとても静かで、目が座っていた。見るなり鬼怒谷は、春の寒さ以上の悪寒を感じた。


「いやっ...約束は忘れてないよ。誰にも言わなかったらいいんでしょ?」
「そうだ。そして私は、お前の最低限の安全を保障してやるってだけだ。それ以外お前は、気にせず暮せばいい。」
「いろいろと気になるんだけどなぁ...」


昨晩、突然出会って突然脅迫し、そして突然家に住み着いた新しい住人。見た目は小学生くらいなのに態度がでかいこの少女は、自身より遥かに巨大な怪物を簡単に倒す力を持っていた。たまたま通りかかり運悪く現場を見てしまった鬼怒谷は、彼女に言われるまま共同生活を強いられるはめになったのである。
少女が人間ではないことは、昨日のことで明白だった。とはいえあまりにも常識に欠ける行動は、鬼怒谷に予想以上の心労を招いた。


「見ないんだったら、電気代がかかるからテレビ使うのやめてほしいっていうか...あと机の上は座らないでほしいし、ってか土足!なんで脱いでないの?!」
「前に見た人間は、このまま部屋に上がってたけど?」
「確かにそういう国もあるけど、ここは違うから!」
「ったくややこしいな人間は。」


悪態を付きつつも、素直に従う少女。鬼怒谷を押し退け、玄関に向かって足を蹴り上げ、靴を脱ぎ飛ばす。鬼怒谷は口出ししたいのをぐっと堪えた。まだまだ言いたいことがたくさんあったからだ。細かいことは後でいい。


「いいか?君は大家さんに内緒でここに住んでるんだ。だからあんまりうるさくしないでほしいんだよ。もしバレたりしたら...君のいう条件じゃ路頭に迷うことになる。」
「あー言ってることはわかるぞ。ガスとか止められるやつだろ。家賃滞納?」
「全然違う...でもとにかく静かにしてね。」


鬼怒谷は、はぁ、と深く嘆息した。
話が通じるとはいえ相手は地球外の生命体。EBEなのだ。人間の常識を知らないのは大目に見てやるべきことなのだろう。しかしそうだとすれば、今までどうやって暮らしていたのだろうか。


「おい?今から何するんだ?」
「朝ごはん作るんだよ。奇跡的にいつも通りの時間に起きられたからね」


いろいろ見越してたくさんアラームを設定して良かったと鬼怒谷は思った。なぜか携帯電話は寝床から離れた窓際で発見されており、いつもの時間までに数回アラームが鳴った形跡があったが止められていた。若干画面にヒビが入っているところを見ると、おそらくこれも彼女がやったのだろう。

 

「どうやって作る気だ?」


怪訝そうに見上げてくる少女。その表情だけ見ると、あの横暴な態度が嘘のように思える。
鬼怒谷は冷蔵庫を開けた。中からひんやりとした空気が漏れてきて、寝冷えしていたこともあり思わず震えてしまう。
少女も冷たい風に驚いたのか少し後ずさっていた。


「な、なんだこれー。」
「ここに食べ物を入れて保存しておくんだよ。今日はとりあえず...卵かなぁ。」


鶏卵を4つ、ベーコンを1パック取り出し、鬼怒谷はフライパンを用意した。それをコンロの上に置き、油を敷いて熱している間に皿を準備しておく。最早手馴れたものである。
それを横から興味深そうに少女が見ていた。


「それは何の儀式なんだ?」
「儀式じゃないよ。ご飯作ってんの。」
「私が前いたところでは、こうやって黒い石を熱して何かに祈る習慣があったぞ」
「そ、そうなんだ。」


パックからベーコンを4枚取り出してフライパンに載せる。じゅうじゅうと美味しそうな匂いと共に肉の焼けていく音がする。底にくっつかないように箸で動かしつつ、焦げ目がついたらさっと皿へ移し、今度は鶏卵を手に取った。器用に片手で割って落とすと、熱された鉄と触れた瞬間、再び、じゅうっと芳ばしい音を立てた。卵白が見る見るうちに濃い白色を呈し始め、先程の肉汁と相まって良い匂いが鼻腔を通った。そこへ鬼怒谷は計量カップを手にし、水を汲んでフライパンに流し込んだ。


「うわっ。」


一瞬で蒸気が立ち上り、底に残った水の塊がパチパチと弾ける。思わず声を出す少女。
鬼怒谷は蓋を持ってきて、上からそれを被せると、静かにコンロの火を消した。


「そ、それ大丈夫なのか…?」
「うちではこうやって作るんだよ。目玉焼き。」


そう言って、鬼怒谷は冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、もう片手にはコップを2つ持ってリビングに運んだ。
彼が戻ってくる頃には、フライパンは静かになっていた。そっと蓋を取ると、残った蒸気が一気に放出された。取り残されたのは、卵黄が半熟の目玉焼き。ベーコンの皿に一緒に載せて、完成である。


「よし、できた。冷めないうちに食べよう」
「お、おお。」


朝の食卓は思いの外静かだった。
箸を使えるか心配だったのでフォークも用意したのだが、少女はその技術を習得していたようだった。それを駆使して、ただ黙々と食事を口に運んでいる。
鬼怒谷も普段1人で食べているので、黙っていた。気にはなるものの、話しかけるタイミングを完全に失っていた。
初めて感じる無言の圧力に耐えきれず、鬼怒谷はリモコンを取った。いつもは節電のため情報を全てネットのみに頼っているのだが、今回ばかりはこの戒を破ることにする。
パッと表示された画面は、意気揚々としたアナウンサーの第一声が丁度発揮される瞬間であった。


『全国の皆様おはようございます!ニュース・モーニングの時間です。昨晩は本当に様々な事件がありましたが、朝の時間でわかりやすくまとめてまいりますね!』


そう言って、女性アナウンサーは笑顔を見せた。


『ではまずは、EBE関連のニュースからお伝えしていきます。』


ぴくり、と身体が反応する。それは少女も同様のようだった。


『昨日K市の富司ハイウェイを襲った大型EBEですが、研究の結果新種であることが発表されました。担当研究者によりますと白昼での大型種の出現は非常に希だそうで...』


気がつくと、少女がテーブルから身を乗り出していた。目は映し出される映像に釘付けになっている。


「...やっぱり仲間としては気になる?」


と、鬼怒谷は何気なく尋ねたつもりだった。
しかし、それに対して向けられた少女の視線は、強い嫌悪感に満ちたものだった。


「仲間!?んなわけないだろっ!あんなのと一緒にすんな!」
「えっ!そ、そうなんだ、ごめん...」
「はぁ。私からしても人間はどいつも同じに見えるから、そう思うのも仕方ないのかもしれないな。」


呆れた様子で席に戻る少女。


「それよりも警戒するべきは、こいつを殺した勢力だ。お前も肝に銘じとけよ」
「う、うん。」


画面はELIOの職員に変わっていた。ヘルメットを被っていて顔は見えなかったが、怪物と争うには相応しい屈強そうな体つきをしている。彼はインタビューを申し出たアナウンサーに快く対応していた。
『今や昔と違って、殆どのEBEは我々の開発してきた技術によって撃退することが可能となりました。これからも、市民が安心して暮らしていけるようにいち早く駆けつけ、そして確実な排除に務めていきます。』
そう締めくくると、周りから歓声が上がった。彼は身を翻し、それ以上応答することはなかったが、英雄を讃えるかのように最後まで拍手を送っていた。


「ふん。こんなものじゃ私はやられないけどね。」


少女は鼻を鳴らした。


「まぁ、こういう馬鹿がいてくれると、こっちは生きやすくていいんだけどさ。」
「人間側はたまったもんじゃないけどね...」

 


空になった皿を片付け、いよいよ通学の時間が迫ってきた。そう、1番気がかりだったのがこれである。
常に少女の監視下にあることを強要された鬼怒谷だが、大学には行かねばならない。どう少女を説得するか、非常に悩ましかった。下手なことを言えば、本当に休まざるを得ないだろう。主に怪我的な意味で。
その時、予告もなく少女が鬼怒谷の鞄をひっくり返した。ドサドサとノートや筆記用具がばらまかれ、彼女の足元に散らばる。


「えええ何してんの!?」
「隠しても無駄だぞ。お前は学生ってやつなんだろ?学生は学校に行くんだ。こういうもの持ってな。」
「そ、そうだけどさ、なんで今それをする必要が。」
「今から出かけるんだろ?勝手に出ていくのは許さないぞ!」
「だっ...だよねぇ」


鬼怒谷は肩を落とした。
言葉は通じても言い訳が通じない少女に把握されていたのは思わぬことだった。知らなければ幾らか嘘をつくことも考えていたのだが。
欠席を覚悟したその時、少女は言い放った。


「出て行くなら私もついて行く。それなら許してやっていい。」
「!?」
「お前を洗脳できたとしても、お前と繋がりのある奴が騒いだら面倒だからな。」
「え、い、いいんだ...?」


意外な物分りの良さに、鬼怒谷は心が震えた。相変わらず言うことは物騒だが、本当は優しい心を持っているのかもしれない。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼はふとある疑問が湧いた。


「でも、どうやってついてくるんだよ?」


聞くと少女は得意げな顔をして、笑った。


「ま、いずれわかることだが、教えといてやるよ。ただし...」
「絶対言うな、でしょ?」


少女はムッと眉間にしわを寄せた。先に言われたことが少し不服だったらしい。
床に降り立つと、彼女は一呼吸置いてからふっと息を吐いた。それと同時に、少女の姿がパッと消えてしまった。


「えっ?」


辺りはしんとしたままで、部屋にいるのは鬼怒谷1人だけになっていた。振り向いても後ろに回ったわけでもなさそうだ。


「どうだ、人間には真似できないだろ?」


そう言って、再び少女が目の前に出現した。鬼怒谷が言葉を失っていると、それを見て嬉しそうに笑う。


「君は透明人間だったのか...」
「それに限りなく近いとは言っとこうかな。」


益々人外らしさを発揮する少女に、思わず鬼怒谷は乾いた笑い声を漏らした。これに加えて、あの怪物を倒す力があると思うと、これからが更に不安になってきた。


(もしかしたら、そのうち闇討ちされるんじゃないだろうか...。)


彼女に下手な動きは見せないようにしよう。と、鬼怒谷は改めて肝に銘じるのだった。

 


鬼怒谷の住む大刻アパートは、阿久更町の南側にある。阿久更町は先程ニュースに上がった富司ハイウェイの近くであり、昔は隕石が落ちた町として一躍有名になったこともある。
今でも季節になるとその話題で盛り上がり、観光客の足も増える。道を歩けば、隕石の落下地点を探してさ迷う彼らの姿が見かけられた。
鬼怒谷の大学はここから徒歩二十分。少し遠いが、バスも電車も使わないのでラッシュに巻き込まれることはない。
戸締りを確認し、階段を降りて門を出ると、その下に少女が待っていた。


「あ、あれ?一緒に出てきたんじゃなかったの?」
「窓から出た。」
「は?!」
「ついて行くとは行ったけど、ルートは自分で決めさせてもらうよ。後ろにいるのは性にあわないんでね。」


そう言ってさっさと歩いていく少女。鬼怒谷は慌ててそれを追いかけた。


「ちょっ...その時、誰にも見られなかった?」
「そんなへまやるわけないだろ?ちゃんとステルスしてきた。」
「だからって、窓から出るの危ないと思うんだけど...。」
「いちいちうるさい!」
「いっ!」


鋭いローキックが鬼怒谷の左足を襲う。小さいながらに力は強烈で、思わずしゃがみこんでしまった。


「ほら早く行かないと遅刻するんだろ?急げ急げ。」
「くぅぅ...」


足を引きずり、鬼怒谷は彼女の背中を追った。優しさは常に見せてくれないようである。


「と、ところで...君にずっと聞きそびれてたことがあるんだけど。」
「なんだ急に?」
「僕、君のこと君って呼んでるけど、本当はなんていうの?」


少女はぴたりと足を止めた。
続いて鬼怒谷も足を止める。聞いてはいけないことを聞いてしまったか、と、一瞬焦った。


「あっいや、やっぱ何でもない!気にしないで…」
「うーん、名前かー。」


ぼそっと呟く少女。焦る鬼怒谷をよそに、彼女は唸り声をあげた。


「やっぱり必要なのかな?人間として。」


そう言って振り向いた少女は、本気で悩んでいる様子だった。鬼怒谷に向かって、素直な疑問を飛ばしている。


「地球のものはなんでも名前があるもんな。これも、コンクリートっていうんだろ?名前がない方がおかしいんだよな。」
「君は親とかいないの?」
「そんなのはいないよ。私はずっと私で、1人だけだからな。」
「じゃ、それなら...僕が考えて呼んでもいい?」


鬼怒谷は恐る恐る提案した。対する少女は、案の定嫌そうな顔をした。しかしこれは予想の範囲内である。


「だってほら、考えてみてよ!呼ぶ時に困るし、君ももし第三者に名前を聞かれたとしたら困るだろ?今決めとくのがお互いにいいと思うんだけど。」


早口になりながらも伝えてみる。すると、少女にも思うところがあるのか、小さく頷いていた。


「そう言うなら、呼ばれてやらんこともない。でも変な名前だったら蹴るからな!」
「そっ...それは大丈夫。たぶん」


とは言いつつも、鬼怒谷には一つしか思い浮かばなかった。自分はしっくり来るのだが、果たして彼女が気に入るかどうか。


「えーと、さっき思いついたんだけど、ステラってのはどう?」
「はぁ?なんだそれ。」
「あ、もしかして気に入らない...?」
「別に、フツーだな。」


軽く一蹴されてしまった。鬼怒谷としては、なかなか上手いネーミングなのではと思っていたが、やはり感性が違うのか。
少女はくるっと踵を返した。その直後、何度か言葉を反芻した。何やら呟き混じりに発していたが、


「まぁ...変じゃないから、それでいいよ。」


背中を向けたまま言う少女。どうやら蹴りを入れられるのは免れたらしい。鬼怒谷もほっと胸をなで下ろした。


「ちゃんと覚えておかないとなぁ。いざという時使えないんじゃ話にならないし。」
「あっそれならいい物が...」


そう言うと、鬼怒谷は鞄を下ろした。中に手を突っ込んで何かを掴むと、そっと少女に渡した。
小さな星のブローチだった。
以前副賞か何かで貰ったもので、男性である鬼怒谷には必要のないものだった。


「なんじゃこりゃ。どうしろっていうんだ?」
「それを身につけておいたら忘れないかなーと思って。ステラって星って意味なんだよ。」
「ふーん...」


少女は受け取ったブローチをまじまじと見つめた。


「つけてあげようか?」
「いや、自分でつける」


少女は鏡も見ずに、器用にブローチを付けた。一つは帽子に、もう一つはマフラーに。


「これでいいか?」
「うん。やっぱりすごく似合ってる。」
「馬鹿にするなっ」
「いや褒めたんだけど!?」


結局少女の蹴りを食らった鬼怒谷だったが、言うほど痛くはなかった。
何よりも鬼怒谷は、少女が提案を受け入れてくれたことが嬉しかった。彼女がどう思っているかは怖くて聞けなかったが、様子を察するに満更でもないようだった。

 


アパートから十五分ほど歩くと、大通りに出た。ここは町の中でも1番賑やかな場所で、常に多くの人や車が行き交っていた。スクランブル交差点に差し掛かったところで、鬼怒谷は後ろから呼び止められた。


「よっ。おはよう鬼怒谷!」
「あ、秋色!」


鬼怒谷は思わず足元を見た。が、そこにステラの姿は既になかった。


「なに?なんか踏んだ?」
「あっいや、何でもない。あははは」


おそらく、鬼怒谷より先に秋色の気配に気づいて姿を消したのだろう。鬼怒谷は咄嗟にしてしまったとはいえ、自分の行動に少し後悔した。彼女が場にいれば、蹴りを入れられたことだろう。


「そーだ!鬼怒谷、昨日のニュース見たかよ?」
「ああ、富司のやつ?」
「そう、それもそうなんだけどな?オレがビビったのがその次のでさ」


信号が変わり、人の群れが動く。2人も同時に歩を進めながら、秋色は舌を巻いて話し続けた。


「今朝、第三公園で死体が見つかったんだって!」
「第三公園って…僕のアパートの近所じゃないか」
「そうなんだよ。だから大丈夫か心配したんだぜ!」
「全然気が付かなかったなぁ...身元はまだわかってないの?」
「いや、人間じゃないんだ。EBEのだよ。」
「あ...」


突然、記憶がフラッシュバックする。あの醜悪な姿が小さな影に一刀両断される光景が、鮮明に浮かび上がってしまった。


「おい、大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫...。」
「もしかして、み、見たのか?」
「......いや、見たわけじゃないけど、近くにいたと思うと...怖くてさ」


鬼怒谷は言葉を絞り出した。言っていることは嘘だ。しかしここはステラとの約束のために、友人を騙さなければならない。恐怖と心苦しさとが相まって、言葉がたどたどしくなってしまった。


「だよなー。オレもそう思うよ。」


ポンポンと鬼怒谷の背中を叩く秋色。これは彼なりの慰め方である。


「まあ人生いろいろあるよな。一緒に生き抜こーぜ。」


気がつくと目の前に大きな建物が見えてきた。2人の向かう先、阿久更私立大学である。広大な敷地を備えた、この辺りでは比較的大きな大学だった。
鬼怒谷と秋色が揃って門をくぐろうとした、その時である。


「どこ見て歩いてんだっ!!」


突然背後で怒号が響き渡った。
誰もが振り返り、その発信源を見やる。そこにはいかにも斜に構えていそうな、ガラの悪い青年が、横に立っている気弱そうな青年に激しく罵倒を浴びせかけていた。
まさに因縁を付けられている状況である。見兼ねた守衛が慌てて止めに入るも、青年の怒りは収まらない。


「てめぇがフラフラしてっからぶつかったんじゃねーかっ!ぶつかったっつーか、ありゃ突進だぞ!?なぁオイ、何考えてんだ!」


ぐあっと胸倉を掴みあげ、唾を飛ばす青年。一方で、気弱そうな方は意にも介さず、というか上の空の様子で彼を見上げていた。


「ああ...朝っぱらから元気だなぁ。」


秋色が呆れたように呟く。


「オレ達も見習わなきゃ、なあ?」


と、皮肉りながら鬼怒谷を見た。鬼怒谷は、突っかかられた青年を気の毒に思いつつも、その場を後にした。

 


それからの時間は、またも平常通りだった。講義を聞き、昼食を取って、また講義室に戻る。2年間経験したその流れは、今でも相変わらずだった。
昼時になって、食事を終えた鬼怒谷はこっそり講義室を抜け出した。敷地内の、わざと人気のない場所に入り、辺りを見回す。


「ステラ?今どこにいるんだよ?」


誰かに聞かれないように、そっと小声を出す。
すると、木陰から彼女が姿を現した。


「なんだよ?」


明らかに機嫌が悪いという目つきをしていた。その理由は、鬼怒谷にはなんとなく理解できていた。


「こっちは昼ごはんの時間なんだけど、君は何か食べたの?」
「なんでそんなことを聞くんだ。」
「お腹空いてると思って。」
「はぁ?私らは単なる利害関係なんだぞ?なんでお前にそこまで気遣われなきゃいけないんだ。」


幹に爪を立てながら、少女が言う。目一杯の悪態のつもりなのだろうが、同時に聞こえてくる腹の虫のせいでいまいち迫力に欠けていた。


「これ、良かったら。さっきもらったものだけど...」


鬼怒谷が差し出したのは、コンビニで購入したものと思われるシュークリームだった。朝、秋色が講義室に着くなり手渡してきたものだ。


「なんだそれ。」
「お菓子だよ。お腹の足しになるか分からないけど…」


ステラは、鬼怒谷の手からそれを受け取った。じっと透明な袋越しに見据えて、くるくる縦やら横やらに回転させている。


「開けようか?」
「これくらい自分で開けられる!」


ステラは切り口に沿って袋を開いた。ふわ、と甘い匂いが広がる。


「な、なんだこれは。ふわふわする!」
「あ、それ中にクリームが入ってて、強く持つと潰れたり、中身が飛び出すから注意して」


ステラはそれを聞き終わる前に噛み付いていた。案の定中身が飛び出してしまうが、敢えて鬼怒谷はそれ以上言わないことにした。
彼女は予想以上に気に入ったようで、頬についたクリームも残さず完食した。先程とは打って変わってとても満足そうな顔をしており、見ている方も気分が良かった。


「面白い食べ物だな。うん、悪くない。」
「気に入ってもらえてよかった。」
「空腹は最高の調味料と言うしな。はー」


素直に褒めないのは、彼女の性格だろう。鬼怒谷はその様子を見て、思わず顔が綻んでしまった。
なんとなく彼女との付き合い方が、わかった気がした。


「ところで、今朝怒鳴られてた奴はまだいるのか?」
「ん?」


突然の問いかけに、鬼怒谷は虚をつかれた。


「ほら、あのメガネの。パッとしない...」


と、ステラがジェスチャーをする。ああ、と鬼怒谷は声を出した。


「たぶん一年生だよ。僕の学年じゃない。」
「ふーん。怒鳴ってた方は?」
「あの人はたぶん、留年生。でも4年くらいの人かな。同じ回じゃないよ」
「そうか、じゃあお前はわからないのも仕方ないな。ていうか、誰も気づいてないし。」
「どういうこと?」


胸騒ぎがする。
淡々と語られるステラの言葉には、それとは裏腹に言いようのない不吉さを孕んでいた。
ステラは頭をかいて、何の気なしに答える。


「その4年生の奴、食われてたよ。メガネのやつに。」
「えっ...?」
「さっき食われてた。十中八九メガネは、お前らの言葉で言うと、EBEってやつだ」
「は...あ?」


頭が痛い。今朝見た光景を全て覆す、恐ろしい話に目眩がした。


「お前は気づくべきだったと思うけどね。私みたいに、姿を変えて潜伏してる奴がいると思うのは当然じゃないか?」


その言葉に鬼怒谷は動揺した。ステラの言うことは最もだが、まさか自分のすぐ側にいるなどとは思いもしていなかったのだ。


「人間は、自分は大丈夫だと高を括る癖があるよね。それだから、こういうことになるんだ。」


ステラは深く嘆息した。


「感謝しなよ?教えてやったのはあの約束があったからだ。まぁ、お前は気にしなくても私がいるから...」
「だめだ」


鬼怒谷は、ステラの言葉を遮った。彼女の目が不服に燃えるのを知っていたが、言わずにはいられなかった。


「それじゃ、事情を知らない人が危ない…!」
「それが、どうかしたのか?」


そのステラの言葉は、酷く無機質なものに聞こえた。特に興味もない、だからなんだという意思が、その中に含まれていた。


「ここにEBEがいるなら警察に…いや、ELIOに伝えないと!」
「は?お前、今朝私が言ったことを忘れたのか?あいつらがお前にEBEの存在がなぜわかったか聞いたらどうする。私のことを言うのか?お前から約束を破るのか!」


彼女の気迫は恐ろしいものだった。大気が震え、強く圧力をかけてくる。しかしその表情は、怒りに満ちているというよりも、失望したもののように見えた。


「お前らは変だ。誰かのために自分を捨てることが素晴らしいと思ってる。どうしてそんなことが言える?やろうとする理由は?お前は過去にそれで見返りを得たりしたのか?」


鬼怒谷は黙った。
ステラの声に少しずつ気迫がなくなっていくのが分かった。押し殺された怒気だけが、ただ漏れている。


「はぁ、もういい。」


そう言い残して、少女は木陰に消えた。後を追いかけた鬼怒谷だったが、そこにはもう誰もいなかった。

 


講義室に戻ると、ふてくされて机に突っ伏す秋色が真っ先に目に入った。というか入口のすぐ横なので早く気がついた。


「あ、鬼怒谷。急にいなくなるんで退屈だったん…」
「秋色ごめん。今からジュース奢るから着いてきてよ。あとシュークリームありがとう。美味しかったよ」
「ん?ああ、うん...え?」


早口で捲し立て、無理矢理秋色を立たせると、鬼怒谷は彼を講義室から引っ張り出した。部屋を出るなり、反対側から人影が近づいてくるのに気づいた。その人は次の講義の担当者であった。鬼怒谷は気にせず、秋色を引き連れていった。最初から次の時間は、サボることに決めていた。


「な、なぁっ。奢ってくれるんなら講義の後でもいいじゃん?」


流石に様子がおかしいと思ったのか、秋色が慌てる。鬼怒谷はそれを無視して、レストルームに彼を押し込んだ。


「一体なんなんだよ?そんなに奢りたいのか...?」
「実は聞いて欲しいことがあって。」


辺りを確認しながら、小声で言う鬼怒谷。レストルームの規模はさほど大きくないが、殆どがガラス張りであった。中庭に通じる外の扉と今入ってきた内側の扉とがあり、それらはいつもは通路のように解放されている。鬼怒谷は次々と扉を閉め、秋色を近くの席に座らせた。


「何がいい?」
「え...と、じゃあ」

秋色の選んだ清涼飲料を購入し、鬼怒谷はそれを机の上に置いた。


「で、なに?聞いて欲しいことって」


秋色の顔は引きつっていた。すっかり鬼怒谷に気圧されているようで、ジュースを開けようとするが震えて上手くいっていなかった。


「今朝のこと覚えてる?」
「ん、ああ...留年生がメガネに突っかかってたこと?」
「うん。実は...」


言いかけたところで、鬼怒谷は少しずつ不安を感じ始めた。
果たして秋色は信じてくれるだろうか?
長年付き合った友達だ。信頼関係はある。しかし、だからといって突拍子のなさすぎる話は呆れられるかもしれない。
証拠はない。この目で見たわけでもない。こんなことで納得してくれるのだろうか?
鬼怒谷は不安に声を震わせて、話し始めた。


「実は人間に化けるEBEがいるんだ。」
「へぇ...妖怪みてぇだな。」
「それが、今この大学の中に紛れてる」
「...マジ?」


秋色は、言葉では食いついたようだが、実際にはただジュースを飲んでいるだけだった。それ以外のアクションは何も起きていない。
彼のこの反応は当然だった。鬼怒谷ですら、最初にステラを疑ったのだから。


「EBEって全部モンスタータイプだろ。あれからさらに姿を変えられるのかよ?」
「詳しくはわからないけど、でも危険なんだ。今朝の怒鳴ってたやつ、見たろ?あの人はもう…!」
「でも...なぁ」


秋色は唸り声をあげた。


「実際に見たわけ?それ。昨日のことがあんなら同情するけどさ、お前疲れてるんだよ、たぶん。講義室に戻ろうぜ。EBEより単位の方が大事だと思うよ、俺は。」


秋色の言葉は、鬼怒谷が抱いていた不安そのものだった。鬼怒谷の横を通り抜け、ジュースの空き缶を捨てる。ゴミ箱に投函された空き缶の音が、嫌に虚しく響き渡った。
鬼怒谷は、呆然と立ち尽くしていた。
強い孤独感が鬼怒谷を責め立てる。友人が信じてくれなかったのなら、大勢が信じるはずはない。
鬼怒谷は頭が真っ白になって、何も考えられなくなっていた。邪な影が背後へ迫っていたことなど、気づくはずもなかった。

 


ガタン、と物音がして、鬼怒谷は振り返った。中庭側の扉から、清掃員の老人がよろよろと入ってきていた。老人は白いゴミ袋を両手に抱えていた。すっかり衰えを感じさせる緩慢な動きで、段差を乗り越えようと足を上げる。鬼怒谷と目と目が合った瞬間、老人は歯のない口を開けて笑いかけた。
鬼怒谷はそれを受けて、嫌な感覚があった。
直後、バン!とガラス窓を叩くような音が発生した。老人の腕が、歪な樹木のように伸びていた。それはガラス窓にぶつかってなお伸び続けており、まるで意思を持っているかのように鬼怒谷を追いかけた。


「うわっ!」


机と椅子に逃走経路を阻まれ、鬼怒谷は立ち竦む。その隙に怪物の腕が素早く彼を取り囲み、退路を絶たせた。
気がつくと老人の姿は既になく、鬼怒谷は件の怪奇の存在を見上げていた。
その怪物は、現れては消える黒い目を顔全体に有し、口はなく、胴体と思しき部分より下が暗黒色の触手で覆われていた。どこかから謎の声が発生し続けており、ぶつぶつと何かを呟いているようだった。まるで恐怖を体現したかのような、おぞましい姿だった。
鬼怒谷は度重なる非情の連続で抵抗の気力を失われていた。悲鳴を上げる元気もなく横たわり朦朧とした視界に映るのは、触手の下より現れる巨大な口腔が、今まさに彼を食い殺そうと迫る光景であった。
鋭く肉を貫く音がした。しかしその被害者となったのは、なぜか怪物の方であった。胴体の中心を何か刃物のようなものが突き抜けており、そこからドロドロした体液のようなものが漏れ出ていた。
怪物は金切り声を上げた。鬼怒谷を解放し、逃げるように中庭へ這いずっていく。しかしその努力は、結局怪物の寿命を縮めることに終わった。外へ出た瞬間、その怪物の頭部を、槍のようなものが襲った。嫌な音がして、怪物は潰された虫のごとく触手を暴れさせたが、やがてピクピクと痙攣し、静かに事切れた。


「...!」


鬼怒谷は、呆然とその光景を見ていた。漂う不気味な臭いに思わず顔をしかめるが、よろよろと立ち上がり、怪物の死体に駆け寄っていた。
怪物の頭を砕いた刃は、まるで生き物のようにするすると上方へ消えていった。その後、何かが空から降ってきた。鬼怒谷は、思わず両手を出してキャッチする。それは、どこかで見覚えのあるものであった。
落ちてきたそれは、自分が渡した星の形をしたアクセサリーだった。


「…ステラ?」


鬼怒谷はそれを握り締め、中庭を駆けた。


「どこにいるんだ!?」


周囲を注意深く確認しながら中庭をさ迷う。時間帯が午後の講義と被っていたために、人の姿は一つもなかった。それでも、鬼怒谷はなるべく人の寄り付かない場所へと向かった。
ぼうぼうに伸びた植物に取り囲まれて、まるで隠れるように存在する急なコンクリートの階段を降りると、物が乱雑に積み上がった空間に辿り着いた。そこはごみ捨て場だった。


「...ステラ、そこにいる?」


返答はなかった。
しかし、よく見ると奥の物置場のところに背を向けて座る彼女の姿があった。


「ステラ...」


鬼怒谷は、微動もしない彼女の背中に向かって話した。


「…さっきは本当にごめん。君の言う通り、僕が馬鹿だった...」


目を開けると、そこに彼女の姿はなかった。


「愛想尽かすのも当然だと思う。君の気持ちが収まるなら、何されたって文句は言わないよ…」


周りには相変わらず何の気配もない。鬼怒谷は何が起きても全部受け入れる覚悟で、目を閉じた。
その直後である。
鬼怒谷の頬に、不意の平手打ちが襲った。気持ちがいいくらい派手な音が立つ。鬼怒谷はその威力も重なって思わずよろめき倒れた。


「やっぱり馬鹿だな。なんでそう勝手に先走って、勝手な展開を捏造するんだ!」


気がつくと、そこにはステラがいた。
彼女はその場で尻餅をついていた鬼怒谷の襟首を掴むと、乱暴にぐいと引き起こす。


「ス、ステラ...!」
「私が愛想を尽かしたといつ言った?いつ傷ついた?勝手に決めるんじゃないよ!」
「いっ!いたたたた!ちょ、痛い!痛いやめて!」


頬を思い切り抓られ、鬼怒谷は悲鳴を上げた。ステラが手を離しても、その爪の痕はくっきりと残っていた。


「ふん、今回はそれくらいで許してやる。恥を知るんだね。」
「ス、ステラ、どうして...」
「お仕置きだ。」
「そうじゃなくて!ど、どうして助けてくれたんだよ!」


鬼怒谷は頬の痛みを感じながら、言葉を続けた。


「最初、僕は君を怒らせたと思ってた...もう戻ってこないと思ってたんだ。だけど君は、あの怪物から守ってくれただろ。あのまま見捨てた方が、君のためになったかもしれないのに」


たどたどしく話し続ける鬼怒谷。その間、少女は終始渋い顔だったが、彼の話を遮ることはしなかった。


「口論になったけど、君の言うことが正しかったし...。結果的に君のリスクを上げてしまったし、僕は君に殺されたって仕方ないよ」


鬼怒谷は深く頭を垂れた。彼は彼女の言葉を聞くまで、頭を上げることができなかった。


「はぁ、お前は本当に馬鹿だなぁ」


ステラが大きく肩を竦めた。


「私はお前に心配されるほど弱くない。そういう心配をされる方が嫌だ。ちょっとくらいはしてもいいが、口に出して私に言うな。」
「でも...」
「それに私は約束を破った覚えはないぞ。自分で持ちかけたのに自分で放棄するようなマネはしない。全部お前が勝手に勘違いしただけだ。」

 

ステラは腰に手を当てて、鼻を鳴らしている。そうして語られる彼女の心境説明を、鬼怒谷は呆然と聞き入っていた。


「じゃあ、僕を助けたのは...」


鬼怒谷が、声を絞り出す。
ステラのことは心まで怪物だと思っていたが、それは怯えるがゆえの錯覚だったのかもしれない。
今のこの現状が、考えを改めさせるには十分な証拠であった。


「おっと、また勘違いするなよ。今回は約束を守るためにお前を助けてやったわけじゃない。」
「...え?」


鬼怒谷が改めて感謝の言葉を述べようとした時、ステラはあっさりと否定した。呆気に取られてものも言えない鬼怒谷を無視して、彼女は淡々と語っていく。


「元々あれは消しておくつもりだったんだ。お前を標的にしようとしまいとな。だけど、結果的にお前が囮になったせいで、不本意ながら助けてやった形になったというわけだ。つまりお前は二の次だったんだよ。まぁ、間接的ながら命を救ってやったんだから、多少なりとも私に感謝するといいよ。」
「そ、そう...なんだ。あはは...」


鬼怒谷は渇いた笑い声を漏らした。
前言撤回、彼女は心身共に鬼である。


「そう。だから、お前本当に余計なことしてくれたよな。な?リスクを上げたことに関しては許さないからな。」
「ゴメンナサイ...」


にこやかな笑顔の裏、みるみる増していく威圧的な視線に、鬼怒谷は反省の意を示して速やかに土下座した。
ステラは露骨に嘆息して、彼の頭をパシパシと叩いた。


「これで、お前の友人とかいうやつが私の正体に気づいたらわかってるな?」
「絶対気づかせません誤魔化しますから見逃してくださいお願いします」
「じゃあ上手くやってこい。その間に私はこれを片付けておく」


言って、ステラは残骸に平然と触れ、それを掻き集める。そうしてできあがった肉塊をひょいと持ち上げ、さっさと姿を消してしまった。
どこへ持っていって、どうするのか。鬼怒谷の疑問は膨らんだが、それらは一瞬で掻き消えた。それ以上に悩むべきことが残されているからだ。
鬼怒谷は、訪れた言いくるめの機会に腹を括って現場を後にした。

 


鬼怒谷がこっそりと講義室に戻ってみると、まだ講義は続いていた。彼が抜け出して、十五分くらいしか経っていなかったようだった。
一先ず鬼怒谷は大人しく講義を受けることにした。
周囲の同級生達は、黙々と勉学に励んでいる。鬼怒谷が部屋に入ってきても、特に反応を示さなかった。それは講師も同様であった。
ちらっと後方を向いてみると、先に戻っていった秋色が、携帯電話片手にこちらを見下ろしていた。彼は視線が合うなり、ひらひらと手を振って返してきた。彼もまた、いつも通りの様子であった。
講義の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、鬼怒谷は席を立った。というか午後の最後の時間だったので、殆どの同級生がほぼ同時に立ち上がっていた。


「あ、秋色!ちょっといいかな」
「ん、なんだー?」


鬼怒谷は、部屋を出ていこうとする秋色を慌てて呼び止めた。終了してまだ五分も経っていないのだが、秋色の帰宅速度は俊敏であった。ふと自分を避けているのではないかと思った鬼怒谷であったが、よく考えるといつもこんな調子だったので気にしないことにした。


「えー、と、は、話があるんだけど、時間ある?」
「おう、いいぜ。」


あっさりと快諾する秋色。その表情に、鬼怒谷への不信感を示すような様子はなかった。
鬼怒谷は秋色を外へと連れ出した。もちろん細心の注意を払ってのことである。もしまた誰かに聞かれでもしてやらかしてしまえば、ステラからどんな報復があるかわかったものでは無い。少なくとも、無事では済まされないだろう。


「おいおい、どこまで行くんだよー。なんだよ、また何か深刻な問題を抱えてんのか?」


と、秋色は冗談交じりに言葉を飛ばした。嫌な顔はしていないが、少し心配そうにしている。先程口走ったことが影響している可能性はゼロではないだろう。
鬼怒谷は校舎裏にある、人気のない焼却炉の近くで足を止め、息をついた。そして意を決して、話し始める。


「あのさ秋色...さっき僕が言ってたこと、まだ覚えてたりする?」
「ん?あぁ、まぁ。それがどーした?」
「そ、それがさ、実はあれ、あんまり深い意味はなくて...あの、僕の勘違いっていうか妄想っていうか、とにかくそんな感じなんだよ!ちょっとそういうこと考えるのが好き...っていうか、よくあるっていうか?だからまぁ、気にしないで、ね?」


言った端から鬼怒谷は後悔する。きちんとカンペを作っておけばよかったと。
思いついたことを思うがままに、適当に言い並べてしまったので、自分でもよくわからないことになっていた。
言い終わってみると、秋色は案の定、少し顔を引き攣らせていた。この顔は伝えたい通りに話が通じていないという顔である。鬼怒谷はそう確信した。
しかし、それに対して秋色の放った言葉は、意外なものであった。


「あー、そうなんだな。まぁ薄々はそう思ってたけどさー」
そう、言いながら秋色が頭を掻く。
「オレ、てっきりお前が変な団体に絡まれて洗脳でもされたのかと思ってさ。いや?それなら安心したよ!」
「う、うん。そうなんだよ。びっくりさせちゃってごめんね...」
「いやいや。しかしお前にそんな趣味があったとは思わなかったぜ」
「...あれ?」


雲行きが怪しくなる。
話が少しずつ変な方向へとズレつつあったのだ。
鬼怒谷は恐る恐る、話を掘り下げた。


「ちょ、ちょっと待って。趣味って何?」
「今更とぼけなくてもいいだろ?。オカルト趣味ってやつだろ?変わってるとは思うけど、悪い趣味じゃないと思うよ、オレは!」


快活な笑い声を上げる秋色。どうやら彼は独自の思考回路を巡らせた結果、勘違いを発生させてしまっていた。
確かにあの霧がかったような説明では、スピリチュアルな思考を持っていると誤解されてしまってもおかしくはないだろう。
鬼怒谷はどうしようか迷ったが、秋色が納得した後で話をこじらせるようなことをするのは得策でないように思えた。


「あー...ありがとう。実は人にはなかなか言いづらくて」


悩んだ末、鬼怒谷は、そのまま訂正しないことにした。嘘の言葉を並べ上げ、思いもしない話を切々と語った。
すると秋色は、すんなりと納得した。


「なるほどなぁ...お前も大変だな。ま、なんかあったらオレはいつでも相談に乗ってやるぜ!遠慮なく言ってくれよ!そういうのあんま詳しくないけど!」


と、秋色は眩しい笑顔を見せ、鬼怒谷の肩を叩いた。思わず後ろめたさで撤回したくなるのを堪えつつ、鬼怒谷は言葉を絞り出す。


「そ、そういうことだから...さっきまでのことはみんなに内緒にしといてね。...は、恥ずかしいからさ!」
「わかったわかった。んじゃ、オレはバイトに行くからな。またなんかあったら連絡してくれ」
「う、うん。ありがとう」


秋色は大きく手を振って、その場をあとにした。鬼怒谷はその手を振り返しながら、秋色が建物の陰に消えるのを見送った。
そして姿が見えなくなるなり、彼はほっと胸を撫で下ろした。


「上手くいったのかな…」
鬼怒谷はまだ心臓が忙しなく脈打つのを感じた。
秋色はあれで人に言い触らしたりするような質ではない。おそらくは大丈夫だと思う。
しかし、これでよかったのだろうか。そんな一抹の気持ちが、彼の緊張感を解くに至らせなかった。
その時、鬼怒谷の疑問に答えるかのように、背後から声が飛んできた。


「お粗末な言いくるめだったが、まぁいいんじゃないかな。あいつ信じたみたいだったし」
「うわぁ!?ステラ!...い、いたの?」

不意を突かれて思わず大きな声を出してしまったが、慌てて声を殺す鬼怒谷。
振り返るとそこには、いつの間にかステラがいた。手には暗黒色の不気味な、タコの足のような物体を持っており、彼女はそれをずっと頬張っていた。


「え...それなに?」
「ん?これはあれだ。さっきのやつの残骸だ」
「なんでそんなもの食べてんの...」
「言ったろ、片付けるって」

 

平然と答えるステラ。残りを全て口に押し込み、飲み込み終えると、満腹と言わんばかりに腹を叩いた。

 

「ふぅ、この分なら晩飯はいらんな」
「それ…美味しいの?」
「んなわけないだろ。昼に食べたやつに比べれば雲泥の差だ...。けど腹を満たせて証拠隠滅にもなるんだから十分だよ」


やることは異常だが、ちゃんと考えているらしい。ステラは食後の体操のつもりなのか、身体を動かし始めた。
一体どんな味がしたのか、鬼怒谷は少しだけ気になってしまった。
しかしそれを口には出さず、彼はステラに言った。


「と、とりあえず僕の仕事も終わったよね。はぁ…まさか自分の大学でこんな目に遭うとは思わなかったよ」
「それが過信だって言ってるだろ。誰にだって巻き込まれる可能性はあるんだ。まぁ、お前に関してはこの私がいるから、奴らに殺されることはないけどね。」


と、ステラは胸を張った。
そのはっきりと示された威勢に、鬼怒谷は苦笑しつつも、頼もしく思った。
本意ではないとはいえ、確かにステラは窮地を救ってくれた。どんな横暴な言葉を投げられようとも、その事実がある限り、鬼怒谷は彼女に対する気持ちを少しずつだが変容させつつあった。

 


私立大学での事件は、すぐに学生達の間に広まった。しかしその内容は殺人事件としてでも、EBE関連事件としてでもなく、ましてや失踪事件でもなかった。特にメガネをつけた気弱そうな青年については、名前すら上がってこなかった。
その疑問は、事件の広まる直前になって解消されていた。なんとあの青年は、普通に通学してきたのである。自身の姿を騙って事件があったことなど、全く知らない様子であった。
さらに襲われたはずの柄の悪い留年生は、ステラがEBEの残骸を処理していた時に生存が確認されていた。気を失った状態で怪物の腹の中から救出されていたのである。彼は後日、中庭の林の中で発見されたという。
校内でEBEが暴れた形跡も、この留年生によるものだと解釈された。とどのつまり、彼による器物損壊事件として決着したのである。
これに対して、大学側は「まぁ若いうちはいろいろあるよね!」と留年生の所業を思いの外肯定し、退学させない代わりに被害額分弁償させるという形で納得した。自由過ぎる校風が、罪のない青年を救った瞬間であった。
そんなわけで、死傷者は当然ゼロ。あまりにも呆気なく平穏は戻ってきたのである。

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