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​エピソード6 ブラザーズ・スパイミッション

多くの人々が来るクリスマス・イベントの準備で忙しない中、ディグはいつものように仕事を捌いていた。
EBE達はイベントがあろうとなんだろうと、毎日休むことなく出現する。そんな彼らから市民を守ることは、ELIOの職員の務めとして当然であった。
もちろんディグも職員の一人として、そのことを理解していたが、悲観はしていなかった。寧ろ、元々イベントに無関心だったことも相まって、世間を気にせず黙々とデスクワークを行えることに気楽ささえ感じていた。
ディグがマグカップに手を伸ばそうとした時、不意に部屋の入口が開く。それと同時に、元気の良い声が室内の沈黙を破って入ってきた。

「おーっす!来たぜー!」

やってきたのはウルリだった。今日も今日とて、地下の隔離寮から抜け出して来たようである。
以前は緊急事態扱いされていたウルリの脱走であったが、最近では封じ込めに積極的だった上層部である中枢が発令を中止し、彼の闊歩を許していた。
いたちごっこに疲れたのか、それとも新たな発想の対策を練っているのか、その真偽は定かではない。

「うーん、やっぱりここに来ると落ち着くなぁ」

そう言うとウルリはソファに寝転がり、お腹が見えるくらい大きな伸びをした。そして息を吐き、一気に脱力したかと思うと、すぐに飛び起きてディグのオフィスチェアに寄りかかってきた。

「なぁなぁ、それ何してんの?ゲーム?」
「違うよ。今日提出するための書類を作ってるんだ。これが終わるまでは大人しくしてて」
「ええっ!そんなことしたら、オレが退屈で死んでしまうぞ!」
「そう言われても、今は手が離せないんだよ...」

ウルリの抗議を退け、ディグは忙しなくパソコンを弄った。
次から次へと移り変わる画面を、しばらくは面白そうに見つめていたウルリであったが、やがて興味を失ってフラフラと部屋の中を歩き始めた。

「つまんないなぁー。あーつまんないなぁ。なんか面白いこと起きないかなー?」

わざとらしく大きな声で言うウルリ。そのまま振り返って様子を伺うも、ディグからの反応はなかった。
ウルリがどうやって気を引こうかと思案していると、目の前のコーヒーメーカーに気がついた。中にはコーヒーが半分ほど残っており、仄かに独特の風味を含んだ香りを発していた。

「おーい!なぁ!オレもこれ飲んでいいか?」
「え...いいけど」

データの保存を待つ合間に、ディグは振り返った。彼はウルリが指さすコーヒーメーカーを見るなり、不安げな表情を浮かべる。

「それコーヒーだけど、大丈夫?」
「大丈夫だ!なめんな!」

意思を曲げないウルリに心配の視線を向けつつ、ディグはデスクから立って準備を始めた。
彼は棚からマグカップを手に取り、そこへコーヒーを注ぐと、砂糖を入れてウルリに差し出した。ウルリはそれを受け取ると、すぐに一口啜った。
その瞬間、彼の表情が強ばった。

「...ウルリ?」

ディグが話しかけた数秒後、ウルリは吐血の如くコーヒーを吐き出した。

「あー!ちょっと、もう!」

慌てて雑巾を取りに走るディグ。もう片手には綺麗なタオルを持って、それをウルリに押し付けて渡した。

「もう、だから聞いたのに...」

せっせと床を拭きながらディグが言う。その言葉には、怒りというより呆れの語気を含んでいた。こうなることは、何となく予期していたようだ。

「い、いや、こんなに苦いとは思わなかったんだよ!苦すぎるよ!」
「まぁ、コーヒーってそんなものだからねぇ」
「とかいって、実はわざとなんじゃないか〜?オレのこと鬱陶しいと思って、いけずしてやろーとか思ったんだろ!」
「何もしてないよ。お前が飲むって言うから用意しただけで...」
「だめだ許さん!許さんぞー!一緒に遊んでくれるまでは許さん!」
「わかったよ。それじゃあ後で許してくれ」

床を掃除し終えたディグはそう言い放つと、あっさりとデスクワークに戻っていった。
その間、ウルリは何か言う暇も与えられず、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。

「あ、ああっ!ずるいぞっ!まだ全然許してないのにー!」

意識を取り戻したウルリは、すぐに後に続いて、ディグの座るチェアをガタガタと揺さぶった。それは低レベルながら、彼なりの報復であった。
だが、すぐにディグに手を掴まれ、いつものリストロックを決められてしまい、ウルリは絶叫した。

「ぎゃー!!痛い痛い痛い!やめてごめん許してっ!!」

激痛に悶えるウルリ。解放されてもなお、彼はぐったりと床に倒れ込んでいた。

「うう、鬼だ...ここに鬼がいる」
「終わったらいくらでも遊んでやるから、ちょっとだけ待っていてくれよ」
「そんなの待てないよー...」

すんすんとすすり泣きながらウルリが言った。もちろんそれが大袈裟なリアクションであることは、彼と長く付き合ってきたディグには分かっていた。
その直後、再び部屋の入口が開いて、掃石が入ってきた。彼は室内の状況に対して一瞬たじろいだようだったが、すぐに気を取り直して口を開いた。

「よう大将...と、腰巾着。お加減良さそうだねぇ。こんな日に仕事なんて、可哀想ったらありゃしないな」
「あっ掃石だ。そういうお前は暇なのか?暇だったらオレと遊んでくれよ!」
「いやいや残念ながら、超忙しいんだ。予定の無さそうな人材を探すのにものすごく忙しいのさ」
「...もしかして、また厄介事を持ってきたんですか?」
「いやぁ、正しくその通りだよ〜。さすが、インテリさんは話が早くて助かるねぇ」

掃石は嬉しそうに言った。対して、薄々勘づいていたディグは、深い溜息を吐いた。

「今忙しいんですけど...」
「あーそれについては大丈夫。上に行って期限伸ばしてもらってるから」
「あんたは俺を過労死させる気ですか?」
「そう怒らないでくれよ。こっちだって非番に有事を突っ込まれた身なんだ...扱き使われる者同士、いがみ合いは無しにしようぜ」

そう言って肩を竦める掃石。彼も彼なりに苦労しているらしい。そういう風には見えないが。

「で、今回は何なんですか?」
「おお、それがさ。中枢からのお達しで、あるものの処分をしてほしいそうだ」
「あるもの、ですか?」
「第五級普遍指定獣型、通称“雷獣”は知っているな」
「ああ...何度か見たことあります」

“雷獣”とは、三対の足に四つの目を持つ、蛍光色の毛並みをした犬のようなEBEである。
EBEは危険度や希少性、姿形によってクラス分けがされている。今回のターゲットである第五級は、人に危害を及ぼす可能性が低いと考えられるクラスである。数字が小さくなるほどにその危険度は高くなり、第一級ともなれば環境すら変えてしまうと言われている。
希少性を示すのは指定分類であり、初めて発見された種には総じて特殊指定にカテゴライズされる。後に研究を重ねたり対策が確立されたりすることで、普遍指定へと再分類されることもある。

「気性の荒いEBEですが...でも、調査職員が苦戦するほど危険なものではないですよね。処分するだけなら俺達に任せない方が効率いいと思いますけど...」
「もちろん分かっているさ。そんな単純なミッションだったら、わざわざあんたらに頼みに来ないよ」
「やっぱり何かあるんですね」

誇張気味な掃石の言葉に、ディグは嫌な予感しかしなかった。
経験上、掃石が焦らすような言い方をする時に、良いことは一つもなかった。

「どうもタレコミによると、このEBEをベースにしたクローン体が造られているらしいんだ」
「クローン?クローンってなんだ?」

聞き慣れない言葉に、ウルリが思わず口を挟んできた。

「あるものを、それとそっくり同じに作り出したもののことだよ。遺伝子情報はもちろん、姿形も同じなんだ」
「へぇ〜。そっくり同じものを作れるのか!すごいなぁ!」
「そうでもないよ。技術自体は昔からあったからね」

ウルリは実直に、感嘆の声を上げていた。
きちんと理解したかどうかは不明であるが、少なくとも彼なりに納得はしたらしい。

「でも...EBEの複製は、まだ誰も確立してない技術ですよ。開発したのは何者なんですか?」

EBEは、それが持つ複雑な体構造や遺伝子情報のために、研究が行われているものでも現時点でごく僅かな種のみであった。その僅かな種ですら研究は難航状態にあり、結局のところ明確な情報を得られた者は一人もいない。
もしもEBEの生体の謎を解明するどころか、クローン製造技術を生み出したとなれば、その情報は世界的快挙に他ならない。研究者が如何に奇人であろうと、公表しない方が妙である。

「ふふふ、実はここに写真があるのだ」

ディグの懐疑的な視線を受けて、掃石はもう一枚写真を差し出してきた。
それは複数人が写し込まれた集合写真で、殆どの人間がこちらに向かって笑顔を見せており、正装を着ていることから何かのイベントの時に撮影されたもののようだった。
掃石が指差すのは、写真の右側でグラスを掲げる男性であった。見たところ三十代くらいで、白いスーツがよく似合っている。しかし、研究職に就いているとは考えられないほどに垢抜けていた。

「あれ?この人って...」

ディグはその顔に見覚えがあった。
直接の面識はないが、紙や電子媒体などで度々目にすることがあったのだ。

「どうやら見たことがあるようだね。それもそうだろう、彼は世界的に有名な資産家・裡雪猶の息子だからね」

掃石は自分のことでもないのに、ふんぞり返っていた。
裡雪猶とは、その名前だけでもメディアによく取り上げられる実力派の人物である。還暦を迎えてなお全盛期の活躍を維持し続けており、今や世界中の経済に強い影響力を持つ存在となっていた。

「そして彼の息子の名前は裡雪図。父親ほどじゃないが、彼も有数の富豪として知られてる。高学歴かつ美形というハイスペック人間だが、道楽好きな上にプライドが高く、趣味に盲信的なディレッタントでもある。そんな彼が興味を持ったのが、EBEの研究だったんだ」
「えーと、つまり...そんな多趣味で偏屈な人間が独自に研究していくうちに、クローン体を造り始めたわけですね」
「そういうことさ!」
「...その人、本当に何者なんですか?」
「まぁ細かいことは気にするな、世の中結果がすべてだからな...」

掃石は肩を竦めた。

「んで...かいつまんで言うとね。第五級のEBEが元とはいえ、生み出されたクローンの潜在能力は未知数かつ何体作られているかも分からないので、ウルリの力を借りて、ひとつ残らず破壊してほしいっていうのが、今回の依頼なんだよね」
「おーっ!なるほど、よくわからんけど任せろ!」

ウルリは拳を固めて、真っ先に快諾の意思を示した。

「ここんとこずっと暇だったからなー!えへへ、楽しみだ!」
「奴さんは乗り気だぜ。ディグはどうする?」
「どうするって...」
「選択肢はイエスかラジャーだ」
「はぁ...わかりましたよ」

嘆息を混じえつつ、ディグは渋々頷いた。その様子を見たウルリと掃石は、嬉しそうに声を上げていた。

「よーし!善は急げだ、さっそく乗り込もうぜ!」
「いや、いきなりは無理だよ。まずこの人が今どこにいるか検討をつけなきゃいけないし、どこで研究が行われているか把握しないと……」

息巻くウルリに対して、ディグは不安げに言った。世間的にいけないことをしているとはいえ、相手は著名人。そう簡単に内部調査できる人物ではないのだ。下手に動けばELIO側が訴えられる可能性もある。
ディグは掃石の方に視線を送る。こんな案件を持ち寄ってきたのだから何かしら策があるのだろう?と。
するとそれに気づいた掃石は満面の笑みを湛えて言った。

「大丈夫大丈夫!それならもうちゃんと目星は付けてるさ」
「それを聞いて安心しました。というか自分から説明してくださいよ」
「おっとすまんな。聞かれたら答える質なんでね」

額に手を当てるディグをよそに、掃石はさらりと話し続けた。

「実は近々裡雪図主催のクリスマスイベントがあってね、本部会社のスペースを一般開放するらしいのさ。ドレスコートが義務づけられてるが、またとないチャンスだろ?」
「まぁ、そうですね」
「ドレスコートってなんだ?」
「スーツとかドレスとか、フォーマル……ちゃんとした正装でなきゃダメってこと」
「ほー。なんか面白そう!行こう行こう!」
「でも、ウルリにスーツなんてないんじゃ」
「あー、その辺も安心しろ。格好の支給もされてるから!」
「……なんだか陰謀を感じる周到さですね」
「そう怖い顔をするなよ~。ま、これで相当揉めた案件だしな」
「それってどういう」
「じゃウルリのはこれな」
「おー!サンキュー!」

掃石はディグの懐疑の視線を無視して、ウルリに小包を渡した。早速開けてみると、新品のにおいのするサラサラした綺麗なスーツがきっちりと入っていた。

「おー!これがスーツか!なんかいいにおいだな~」
「ふふふ、特注で作ったものだ。ま、クリスマスプレゼントと思ってくれ」
「掃石ありがと!早速着てみる!」
「ちょっ……ウルリ!」
「はい、博士にはこれ。サイズの問題もあるから、試着してみてくれ」

言葉を遮るように、ディグの目の前にもずいと小包が突き出された。なんとなく嫌な予感がして手を出すのを躊躇ったが、最終的に観念してそれを受け取った。
包みを開けてみる。中から出てきたのは……鮮やかなブルーの生地。薄いベールが組み合わされた優雅なデザインで、裾はアサガオの花のように波打つラッパ状になっており、着れば太腿まで見えるであろうスリットが入っている。胸元から背中にかけては大胆にも大きく肌を露出するデザインとなっていた。
よく見なくてもわかるが、それはどう見てもスーツなどではなかった。

「……掃石さん。俺をからかってますか?」

ディグは困惑と怒気を織り交ぜた複雑な心境で掃石に言う。だが掃石はにこにこと笑うだけだった。

「なんとか言ったらどうなんですか」
「からかってなんかないさ。だって俺はそれをお前に渡すように言われただけだからな。どう?着れそう?」
「着れそうなんて問題じゃないです。これって要するに……俺に、女装しろってことですよね?」
「え、マジ?」

すると掃石が意外そうな顔をした。ひょいと包みを覗いて確認する。どうもこの様子だと、彼もよく知らなかったらしい。だが、中身を知った途端掃石はゲラゲラ笑い出した。

「あっはっは!あぁ!なるほどなぁ!それで誰もやりたがらなかったわけか!」
「笑い事じゃないですよ」
「なになに?ディグのはどんなのだ?」

そこへスーツを試着したウルリがやってくる。普段カジュアルな格好ばかりのウルリでも、馬子にも衣装というか、スーツ姿はそれなりに似合っていた。

「えっ?なんだそりゃ。ドレス??ディグはドレスなのか?」
「この人のせいでね」
「おっと人聞きの悪い。俺は本当に何も知らなかったんだぞ」
「それにしたって酷いですよ……」

掃石が弁明の声を上げると、ディグは怒りを通り越して呆れてしまった。しかし、掃石が知らなかったことは事実であったし、察したディグはそれ以上文句を言えなかった。

「もう……これが事件じゃなかったら絶対引き受けませんからね」
「お、じゃ着てくれるわけね」
「話の方向性をずらす言い方しないでください」

ディグは包みを持って自室に引っ込んだ。さすがにこんなもの、人前で着る気にはなれなかった。中には化粧品や豊胸パッドのようなものまで入っており、割と本格的な女装セットのようだった。
扉を閉めたあと、気配を感じて振り返ると、ウルリが部屋の隅にちょこんとしゃがみこんでいた。

「……ちょっと、何してんの」
「え?見学」
「出てってくれ」

ディグはいつも以上に非情な態度で睨みつけた。するとさすがのウルリも、彼の逆鱗に触れるのがまずいと思ったのか、素直に退散していった。
独りになったディグは、ベッドの上に広げた衣装を見下ろして、改めて深く、大きくため息を吐いた。


もうひとつ面食らったのは、そのイベントが今日の午後だということだった。所謂ぶっつけ本番で調査に当たらなければならないプレッシャーと、望まないうちに凄まじい格好をさせられる羞恥心とでディグは久しぶりに心が折れそうになった。
しかし前半はギリギリに依頼を持ち寄った掃石が悪いとはいえ、ここまで来た以上はやりきるしかないと覚悟を決めることにした。
会場は豪華な高層ビルの中にあり、入口には格好の良い高級車から降車する著名人、並びに普段はしないようなパーティスタイルに身を包んだ一般来客とがごった返していた。
メアの運転で入口に迫ったウルリは、車の中からわくわくした表情で外を眺めていた。

「うわぁすげー!これがイベントかぁ!」
「ウルリくんは初めてだものね。気をつけて行ってきてね?」
「おう、任せろ!」

そう言ってウルリはドアを勢いよく開けて飛び出す。久しぶりの外の世界ということもあって彼は上機嫌だった。スーツを着ているハンデもものともせず、長い階段をぴょんぴょんと駆け上がっていった。

「ちょっとウルリ、早いよ!」

そう慌てた声が背後からする。振り向くと、垢抜けたブルーのドレスを纏い、シルバーブロンドのセミロングヘアを靡かせた碧眼の美女が息を切らして階段を登っていた。その姿を見た人々は、モデルか?芸能人か?と、声をざわつかせている。

「こっちは慣れないヒールなんだから、勝手に行動しないでくれるかな」
「あー……お前誰だ?」
「さっきまで一緒に車にいたろ。なんでわからないかな……」
「えっ!お、お前もしかしてディグか!?」
「馬鹿、声がでかい。俺のことはそう呼ばないって決めたろ」

彼女の正体は、すっかり様変わりしてしまったディグだった。元々中性的な顔立ちだったこともあるが、加えて化粧品や小物類の力で、どこからどう見ても女性にしか見えなくなっていた。ウルリの自慢の嗅覚でも、使用している香水のせいで彼と見抜くことが出来なかったようだ。

「あー、えっと、確かレティシア?だっけ。名前。ほら、ちゃんと覚えてただろ!そう怒るなよ~」
「ほんとしっかりしてよね……お前が頼りなんだから」

ディグは相変わらず硬い表情をしていたものの、その頬は恥ずかしさで赤くなっていた。周囲からの視線や話し声が特にそれに拍車をかけていく。
ディグは一呼吸置くと、ウルリの腕に自分の腕を絡ませた。

「え?な、なんだよ?」
「こうする方が自然なんだよ。周りを見ればわかるだろ。それに、こうしておいた方が離れなくて済むし」
「へ~なるほどな!やっぱディ……レティは賢いなー!」

ウルリはディグとの歩調をあわせつつ、会場に足を運んだ。
中は煌びやかな証明と美しい装飾の壁に包まれ、白いクロスをかけ様々な食べ物や飲み物を乗せたテーブルが点在していた。そこは非常に豪華な立食パーティーで、幾人かは既に談笑を始めながら料理を嗜んでいた。
ディグとウルリが中に入るために必要なことは何も無かった。入口のガードマンらしき人物は軽く会釈をしただけだった。だが、周囲の視線は常にディグの方に向いていて、素性がバレたくない彼にとっては辛い状況であった。

「なぁ、レティ?みんなお前のこと見てるみたいだ。なんでかな?」
「考えたくない……」
「でもさ、すごいよな!あんな短時間でこんなにキレイになるなんてさー!オレ、ほんとに最初誰だかわかんなかったもん」
「そう言われても全然嬉しくないよ」
「ていうか、レティのおっぱいおっきくてふわふわだな。パンツはどんなのを……うぐっ!!」

ウルリの言葉を遮るかの如く、ディグが踵で彼の足を踏み抜いた。先の細いヒールによる一撃は、痛みを通常より倍加する。しかし騒ぎを起こさないよう強く言いつけられていたウルリは、自分の唇を固くかみ締めて叫び声を殺した。

「な、なにすんだよぉ……!ぐぅぅ……!」
「余計なことを考えるなよ。でないと、右足も踏むから」
「うーっ……!わ、わかったよぉ」

ウルリは顔を引き攣らせた。ディグの目は本気だった。今度は足に穴が空くかもしれない。そう思わせる気迫があった。
その時、不意に二人は視界の端から嘲笑が向けられるのを感じた。気配の方向へ視線を移すと、そこにはグラスを持って壁に寄りかかる、ダリアの姿があった。
彼も普段とは異なるフォーマルな衣装を着ており、周囲に馴染んでいた。

「あ!お前っ!ダリア!?なんでこんなところにいるんだ!?」
「そう警戒するな。あんたらの邪魔はしねぇから」

ウルリは反射的に身構える。しかし、ダリアの方はさして動じた様子がなく、むしろ余裕の表情を見せていた。

「それじゃ、お前もイベントを楽しみに来たのか?」
「人間のやることに興味はないがね。うちによく食うのがいて、飯代に事欠くようになったから集りにきただけだ」
「へー。宇宙人も同じものを食べるのかぁ」
「種類によるんじゃねーの?少なくとも俺は人間なんか食わんし」
「なるほど、興味深いね」
「ところでインテリ人間よ。なんでそんなおかしな格好をしてんだ?趣味か?」
「趣味じゃありません。事件解決のための必要行動に沿っただけです」
「事件だって?」

ダリアは興味無さそうにワインを飲んでいる。

「実はこのイベントの主催者を調査しに来たんですよ。EBEの不正複製を行っている可能性があって」
「フセーフクセーってなんか面白い響きだな」
「ウルリ黙ってて」
「なるほどね。通りで気持ち悪い気配がしてると思ったよ」
「えっ!お前もわかるのか!?」
「魂関連のことはあんたよりも自信あるさ」
「ちょっとウルリ、わかってたなら早く教えてくれよ」
「え?あー、ごめん。忘れてた」

初めてのパーティに浮かれたウルリは、すっかり目的を見失っていた。その様子にディグは嘆息する。しかし、ダリアと接触できたことは願ってもない僥倖だった。同じEBEのカテゴリーに属する彼なら、より詳しい情報を手に入れられるはず。

「ダリアさん。俺達に協力してくれませんか?報酬は出しますから」
「興味無いな。違う目的で来たのに、なんで面倒臭いことに巻き込まれにゃならんのだ」
「そこをなんとか」
「いやだね」
「なー、一緒に調べようぜ。三人でやったら絶対面白いって!」
「ウルリ、遊びに来たんじゃないんだよ」
「なんと言われても俺は動く気ないから。わかったらさっさと親玉を探しに行ってこい」

ダリアは終始素っ気ない態度を崩さなかった。あまつさえ二人を追い払うように手を振ってすらいる。
ディグは諦めきれなかった。早く事件を終わらせてこの格好から解放されたいという私情のせいで、彼はいつもより焦燥していたのだ。頭をフル回転させて、なんとか協力してもらおうと模索する。

「……そういえばダリアさん、前にファムのことを助けてくれたそうですね」
「は?なんでここでその子が出るんだよ」

明らかにダリアの反応が変わった。初めて緑色の瞳がこちらを向いている。

「ファムは俺の妹なんです」
「えっ……マジ?」
「マジです」
「そう言われてみたら……」

ダリアはかなり面食らったようだった。彼は先程よりじっとディグの格好を見ている。口元を押さえ、しばらく悩むような仕草をしていたが、その目は泳いでいた。
そこへウルリが、ディグの格好を改めて見直してふと声を上げた。

「あ、そういえば、お前なんとなくファムに似てるな?その格好のせいかな」
「まぁ、兄妹だからね」
「くっ……本当に狡いな人間共は。あーあーわかったよ!協力してやる!」

喚きつつ、遂にダリアは折れた。EBEとはいえ、人間的な感情があるようだ。彼は踵を返し空になったグラスをテーブルへ乱暴に置いて、吹っ切れた様子で戻ってきた。

「言っとくけど今回だけだからな!そんな格好してなかったらガン無視してたからな!」
「助かります」

ディグは、今だけは、この格好で良かったと思った。図らずもハニートラップをかけてしまったことに後ろめたさはあるものの、今更そんなことを言っていられる余裕はない。

「それじゃ、二人が感じている気配の位置を教えてくれ」
「下だ」
「下だな」
「ってことは、地下かな?ここ1階だし」
「なるほど、悪い研究施設にはよくあるやつな!」
「万が一暴動が起きても鎮静が容易いしな」
「よし、行ってみよう」
「え、もう行くのか?裡ってのと接触しないでいいのか?」
「俺達の目的は複製体の破壊であって犯人を捕まえることじゃない。そういうのは証拠さえ押さえれば後からだってできるしね」
「えぇ……なんか、つまんないなぁ。パーティはもうおしまいってこと?」
「わがまま言わない。ほら行くよ」

そう言って、ディグは歩き出そうとした。その時、丁度通りかかった人影とぶつかってしまう。彼は慣れないヒールのせいでバランスを取れず、大きくつんのめった。慌てて飛び出そうとするウルリ。だが、それよりも先に人影から腕が伸び、優しくディグを支えた。

「……っと!大丈夫かい?お嬢さん」

艶やかなハスキーボイスが降りかかる。見上げると、どこかで見たような顔がある。そう、それは昼間に見た……。

「あっ……あなたは!」
「おや?僕のことを知ってくれているとは嬉しいな。しかし君のような美女、僕が知らないはずないんだけど。一般来客かい?」
「そ、そうです」
「なるほど。思わぬ所に百合は咲いているものだね」

その男は、件の人物・裡雪図だった。写真で見るよりも端正な顔立ちで、かっちりした白いスーツの上からでもわかるほど体格も良い。吐き出す言葉はディグの背筋を冷やすほどキザであったが、周囲の女性達は言葉を聞いただけで顔を赤面させ、黄色い悲鳴をあげていた。

「そうだ。ちょっと話さないか?君のことを知りたい」
「え……あ……」

ディグはちらっと二人の方を見た。ウルリは何が起こっているのかサッパリという顔で呆然としており、横のダリアは口元を押え肩を震わせていた。

「ちょっと待っていていただけます?」

ディグは、精一杯の笑顔を雪図に向けて、くるりと踵を返し二人の元に戻った。

「あ、おかえりレティ。大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ダリアさん笑うのやめてください」
「いや…だって……くくっ……あいつあんたのこと女だと思ってるんだぞ」
「……むしろその方が都合がいいかもしれない」
「へ?」

ディグは雪図に聞こえないように声を潜めた。

「二人は地下へ行ってクローン体を破壊してきて。俺はあの人の気を引いておく」
「それってつまり、おとり捜査ってことか?大丈夫なのか??」
「あんたに欲情してきたらどうすんだよ。ここはあいつの城なんだろ?何があっても不思議じゃないぜ」
「……そうならないことを祈りますよ」

ディグは大きく深呼吸する。意を決して雪図の方へ歩く。その歩き方は今までと異なり、瀟洒な女性そのもので気品が溢れていた。今まで以上に周りから視線を浴びるが、もう気にしないことにした。
ディグは雪図に恭しい態度で会釈した。

「お待たせしました。今からなら大丈夫です」
「あの二人はいいのかい?」
「しばらく席を外すと伝えましたから」
「そうかい。それじゃ、こちらへ」

雪図はそう言うとディグの肩を抱き、人混みに消えていった。ウルリはその姿になんとなく嫉妬して足が動いたが、ダリアが腕を前に出して制する。

「俺達は地下だ。そうだろ?」
「う、うん」

ウルリは先行するダリアに続いて、人混みを抜けた。
ダリアは堂々と地下へのエレベーターへ向かい、下行きのボタンを押した。すると、左右に構えるガードマンが不審な目を向けてくる。

「ちょっと、君達。そこは関係者以外立ち入り禁止です」

ダリアは只管無視している。そこへ痺れを切らしたように、ガードマンが動いた。
だが、次の瞬間、ガードマン達の目の色が緑色に光り双方が足を止めた。彼らは再び元の位置へ戻り、虚空を見据えて立ち尽くした。

「あ、あれ?なんだ今の」
「ほら、来たぞ。早く乗れ」

ダリアに促されるまま、ウルリはエレベーターに乗った。

「なぁ、なんであいつら来なかったのかな?立ち入り禁止だって言ってたのに。気が変わったのかな」
「あぁ、気が変わったんだろ。細かいことを気にすると生きにくいぞ。忘れな」

ダリアは適当に答えた。
そんな二人を運ぶエレベーターは、早く垂直に地下へと降りていく。最下層にたどり着くと、僅かなGを感じさせた後に扉を開いた。
そこは上層の煌びやかな様子とは打って変わって薄暗く、見るからに怪しい研究を行っていますと言わんばかりの内装となっていた。

「こりゃあお見事。人間の技術とは思えないな」
「え?ここって雪図が作った場所って聞いたぞ……。ま、まさかあいつ、宇宙人!?」
「や、あいつはまるきりただの人間だ。ここは誰かがあいつに授けたのさ。そいつはあんたの言う通り、宇宙人だと思うぞ」

二人は周りに誰もいないことを確認すると、奥へと歩を進める。メタリックな壁と薄暗いせいでか、辺りには冷たく張りつめるような空気が漂っている。しかし二人は、奥の部屋から複数の生命力を感じ取っていた。
そこは白い照明がつき、二つの堅牢を挟んだ通路のような部屋だった。奥にはまだ何かあるようで金属質の扉がひとつついている。たくさんの気配は、牢獄の中から放たれていた。
そこはよく見なくても、獣のような稲妻のような存在が唸り声を上げて荒々しく蠢いていた。中には格子に噛み付くものもいる。これが“雷獣”である。小型犬サイズのものから馬のように大きなものもいた。どれも動く度に激しい閃光を瞬かせ、動く雷という印象だった。

「うわ!すげー!これが雷獣……めちゃくちゃいるじゃんか!これ全部クローンってやつなのか……」
「そのようだ。可哀想だが、片端からやっていくとしよう。ってことで、あとはあんたに任せる」

そう言うとダリアは、通路の入口に寄りかかった。ウルリは目を白黒させて彼に詰め寄った。

「えぇ!?一緒に戦う約束じゃなかったか!?」
「俺はあんたみたいな戦闘タイプじゃないんだよ」
「さ、さっきみたいな能力使えばいいんじゃん…?」
「めんどくさい」
「うう、もういいもんね!オレが全部やっつけてやる!」

ウルリは肩を怒らせ、獣の群れに向き直った。相手は未知の生命体。それも大量にいる。正直一人でやれる自信など彼にはなかったが、ダリアが手伝ってくれない以上選択肢が絞られている。
やるしか、ないのだ。
ウルリは大きく息を吸い、風船のように上半身を膨らませる。と、同時にスーツが弾け飛び、筋骨隆々の獣人へと姿を変容させた。檻の中の獣達は一瞬気圧されるも、それはすぐに闘争心へと変わった。激しく唸り、威嚇し、ウルリを迎え撃とうと荒れ狂った。

「だりゃあああ!」

ウルリは懇親の一撃を檻に放った。衝撃により格子はひしゃげ、天井にまでヒビを伸ばし、ズズン、と地鳴りすら引き起こされた。

「あいつ、マジで人間か……?」

危機を感じて咄嗟に空中に飛んでいたダリアは、滞空しながらウルリの戦闘を見守った。その戦いぶりは異形の目から見ても、彼を人間と断言できる要素はひとつもなかった。


ところ変わって、高層ビルの一室に通されたディグは、まるでホテルさながらの設えに絶句していた。社員用の仮眠室だと雪図は言っていたが、仮眠のためにキングサイズのベッドを搬入するなど誰が想定できようか。
油断していると本当に間違いが起きるかもしれない。ディグは改めて気を引き締めた。

「それで、お話ってなんですか?」

ディグは雪図に声をかける。雪図は部屋の一角の給湯スペースで飲み物を用意していた。それはおしゃれな香りのするハーブティーで、砂糖とミルクと共に盆に乗せられてくる。中央のテーブルにそれらを並べながら、雪図はやっと口を開いた。

「何、君のことを教えてほしいだけのことさ。名前は?」
「あ……レティシアです」
「素敵な名前だね。意味は“喜び”……ふふ、僕も君に出会えて喜ばしいよ」
「そうですか……」
「さて、僕のことは説明不要だと思うが、あえて自己紹介させていただこう。裡雪図、36歳。このコーポレーションは三つ目に立ち上げた企業でね、未知の解明をスタンスにプロジェクトを進めさせてもらってる」
「未知の解明?」
「そう。興味があるかい?もし君が口の固い人間であれば、特別に見せてあげても構わないよ」

ディグは目を丸くした。それは的が当たり過ぎて怖いぐらいの提案だった。
彼の言うことは十中八九、依頼内容に一致するものだ。着いていけば、確実に証拠を押えられるだろう。だが、ディグにはあまりにも都合がよすぎる話だとしか思えず、二の足を踏んでしまう。第一、出会ってまもない相手に秘密を喋る人間はそう多くない。増してや禁止されていることに手を出している人物が、見ず知らずの相手に手の内をひけらかすような真似などするはずがない。そう考える方が自然である。
ディグは悩んだ末に、首を振った。すると雪図は、不気味な笑顔を浮かべた。

「な、なんですか?」
「君は慎重だが聡明な人間のようだ。まるで僕の言うことを理解している。素晴らしい……」

雪図はじりじりと距離を詰めてきた。そこに本能的な嫌悪感を示したディグは、無意識的に後ずさっていた。

「うちにも君のような賢い女性がいたら良かったんだけどね。そうすれば、もっとプロジェクトが進んでいただろう」
「その、プロジェクト…っていうのは、具体的にどのようなものなんですか?」
「おや、やっぱり知りたいかね?いいとも、お茶でも飲みながら聞いてくれたまえ」

雪図にティーカップを差し出される。ディグはそれに口を付けることはせず、彼の言葉を待った。

「始めたのは1年以上前さ。この地上に大量に生息するようになったEBEを利用して、なにかできないかと思って研究した。彼らは面白くて素晴らしい。人間にはない魅力や能力を持っていて、調べれば調べるほどハマっていったよ。ところが、僕の施設だけじゃ限界があった。あのELIOが使うような技術は持っていなかったからね」
「ELIOに、昔いらっしゃったんですか?」
「いいや。知り合いに職員がいて、彼に聞いたんだよ。だが人伝に聞いただけでは、あの技術を再現することはできない。おかげで半年くらい無駄にしたよ」

雪図がハーブティーを啜っている。ほのかな薔薇の香りが漂ってくる。

「これまたところが、だ。僕の研究を認めてくれる人物が現れてね。彼が素晴らしい技術を貸してくれたんだ。有益なEBEを大量生産できる力さ」

その発言を聞いたディグは確信した。彼が本当にクローン体を生み出しているのだと。心臓が高く、早く鼓動する。それを諭されないよう、ディグは目を閉じて意識を落ち着かせることに集中し始めた。

「EBEにはいろいろいるが、僕は手始めに稲妻の化身に目をつけた。現代において電力エネルギーが重要となっていることは、君もわかるだろう?」

雪図の手が、ディグの肩に伸びる。

「ええ、わかります。でも、私達のために無関係の生き物を利用していいんでしょうか……」
「構わないよ。彼らは僕から生み出された子供のようなものだからね。彼らがするのは、まぁ親孝行みたいなものさ。悪いことじゃない」
「いえ、思うに、あなたがしようとしていることは……っ!?」

瞬間、ディグはぐいと強く引き倒され、言葉を失う。気がつくと彼は雪図に組み敷かれていた。視界の端で、ティーカップの破砕音がする。

「なっ……!なんの真似ですか!」
「ははは、驚かせたね。でも君が悪いんだよ?そんなにいい匂いをさせてたら、思わずこうしてしまいたくなる」
「ふ、ふざけないでください……」
「ここまで来たら、もう君を帰す気にはなれないな。僕達も作ろうか?新しい子供を」
「ひっ……!」

雪図の目は、最早正気ではなかった。それは同性であるディグにとって、さらにおぞましく映っていた。なんとかその手から逃れようともがくが、ドレスが引っかかり思うように動くことができない。そうこうしているうちに、雪図の手が胸に掴みかかろうとする。
その時、極めて無機質で連続的な発信音が鳴り響いた。これを聞いた雪図は手を止め、音のする方に顔を向けた。それはテーブルに置かれた白い受話器から発されている。

「……失礼するよ」

雪図は足早に向かい、受話器を取った。それはディグに聞こえないよう静かに交わされた会話だったが、耳の良い彼にはその内容がわかってしまった。

「……施設で暴動?誰かが手違いを起こしたな。構わない、直ちに睡眠ガスを起動して鎮静してくれたまえ」

雪図の口調は先程とは打って変わって、ひどく冷淡なものだった。しかし受話器を置くと、彼は再び元の調子に戻り、満面の笑みを浮かべて振り返ってきた。

「すまないね。思わぬ邪魔が入ってしまった。さぁ、続きを再開しようか?」
「今の電話……ひょっとしてあなたのプロジェクトに関わるものですか」
「……どうしてそう思うんだね?」
「ただの勘です」
「そう怖い顔をしないでくれ。ふふ、君はどんな顔をしても美しいが」

雪図は肩を竦めた。

「なに、本当に邪魔が入っただけのことさ。実はこの下に研究施設があるんだけど、そこで問題が起こったらしくてね。しかし安心したまえ!地下に繋がるエレベーターはシャットアウトしたから奴らがここまで登ってくることは無いし、鎮静手段も準備している。恐れることは何も無いさ」
「……!」

ディグは焦燥した。暴動の原因は間違いなくあの二人。しかし雪図が言うことが本当なら、なすすべなく彼が投じた罠にかけられてしまうことになる。

「どうしてそんなこと……!」
「まだ研究段階だからね。手懐けられない場合は処分も検討しなければならない。そうだろう?時代の発展にはいつでも犠牲は付き物だった。賢い君ならわかるだろう」
「わかったとしても、あなたの考えには賛同でき兼ねます。すぐにその指示を取りやめてください」
「なるほど。それなら仕方がない」

雪図は笑った。笑いながら、家具の引き出しから何かを取り出した。
拳銃だった。

「君は僕にとって、最早信頼できない人間となってしまった。残念だが、潔く退場していただこう」

その目は強く、深い狂気に満ちていた。底知れない異形が取り憑いているかのように。そこにいるのはもう雪図ではないと、確信し得るほどに。

「あなた……いや、お前は何者だ?」

ディグは銃口を真っ直ぐ向けられながらも、雪図に問いかける。彼は答える代わりに引き金を引いた。
一発の銃弾が火花を散らして壁に穴を開ける。それは着弾までの間にディグの肩をかすめており、白い肌から鮮血が溢れだした。

(くそ、もう話が通じないか……!)

取り憑かれた雪図は、最早引き金を引くだけの傀儡となっていた。狙いはお粗末のようだが、下手な動きをして撃たれる可能性もゼロではない。ディグはすぐに逃走経路を確認しつつ、その動きを警戒した。
第二弾が予兆もなく放たれる。今度は狙いが大きく外れ、天井の照明に当たった。照明は破砕音と共に弾け、室内に闇を生む。
チャンスとばかりに、ディグは走った。視界が闇に飲まれた隙に、少しでも出口への距離を稼ごうとする。背後で銃声が響く。彼は扉に突き当たり、ノブを回した。

(あ、開かない……!?)

扉は鍵がかかっていた。しかも運が悪いことに、闇で視界を奪われているために、どこにロックがかけられているのかがわからない。見つけるのは、手探りに限られた。
その後ろに、雪図が迫ってくる。

「誰か!誰かいないか!?」

最早形振り構っていられず、ディグは扉を叩きながら声を上げた。すると、扉の向こうからそれに応える声があった。

「待ってろ、今開ける!」

直後、ガチャリと音を立てて扉が開いた。立っていたのは鍵を持った白いスーツの男。社員証のようなものを首から下げていた。

「なんだ!?中で何が……!」

そう言いかけた男の額を、雪図が放った凶弾が飛ばした。衝撃で後方へよろめき、壁にもたれかかって倒れていく。白い壁紙に赤いペイントを施しながら。

「邪魔をスルなら……殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す……ふふふ、ははははは」

まるで壊れたラジオのように呟きながら、雪図が不気味な笑顔を浮かべた。彼は次はお前だと言わんばかりに、ディグの方へ狙いを定める。そして突然、はっきりと、鮮明な意思を含んだような声で言った。

「さようなら」

撃鉄が落ち、拳銃が叫ぶ。再び飛び散る鮮血。ディグは痛みに耐えるために目を閉じていた。だが、来ると予感した激痛は全くなく、代わりに何か重いものが上から落ちてきた。
それは先程撃たれたはずの男の身体だった。

「え……?」

ディグが状況を理解する前に、撃たれた男は再び立ち上がっていた。彼は雪図に掴みかかり、拳銃を奪い取ろうとする。しかし雪図は乱暴に振り払い、最後の弾丸を放つ。三発目の銃弾が身体を射抜くが、それでも尚男は動いていた。

「ダリアさん!?」

ディグはそこで彼の正体に気づいた。男は答える素振りを見せないまま、雪図に向かって渾身の蹴りをお見舞していた。今度は幾分効果があったらしく、雪図の身体が床に倒れ伏した。同時に拳銃が手放され、ベッドの下に滑り込んでいった。そのまま、男は追い討ちと言わんばかりに雪図の頭部にもう一度蹴りを入れる。遂に雪図は動かなくなった。

「ったく、三回も殺しやがって。人間のくせにいかれた奴だ」

吐き捨てるように男が言う。見た目は違うが、それは確かにダリアだった。彼の魂の一部が男の身体に取り憑いて動いているのだ。

「大丈夫か?」
「あ…はい。お陰様で」
「あんたも馬鹿だねぇ。こうなることは大体予想が着いただろうに、丸腰で挑むなんてさ」
「し、仕方ないでしょう。この格好じゃ隠すところなんか!」
「いや、逆に女には隠すところがたくさんあると聞くぞ?」
「その話は今重要じゃないでしょう……っと、それよりウルリは!?」
「あー、そうだったな。今地下で雷獣共と戦ってるよ」
「急がないと、毒ガスで動けなくなるんです!早く行きましょう!」
「なんだそんなことか。そう急かさなくとも、ここで解決できるぜ」

ダリアは動かない雪図を一瞥する。すると、黒いモヤのようなものが沸き立ち、雪図の身体にまとわりついていく。

「こいつで指示を変えてやればいい」

雪図の目の色が緑色に光る。彼はひとりでに立ち上がり、受話器を手に取った。

「あぁ、僕だが。今から地下に直接向かうことにした。エレベーターのシステムを元に戻しておいてくれ。ガスも止めておくこと、いいね?」

話し終えると、身体から黒いモヤが抜け出し、雪図は再び崩れ落ちるように倒れた。

「さて、こいつはどうしてやろうか。三回殺してきたんだから、相応の報いを与えてやらなきゃならないんだが」
「とりあえず、縛っておきましょう。どうやらこの人以外にも黒幕がいるみたいですから気を引き締めていかないと」
「はぁ?まだなんかあるのか?」
「途中から様子がおかしくなったんです。まるで何かに操られているみたいに……」
「言っとくが俺は無関係だぞ」
「わかってますよ。あなたがここまで盛大な自演をするなんて思ってません」
「おー、言うじゃねーか。さっきあんたのために死んだ一回分を返してくれ」
「それより、早くウルリのところに向かいましょう」

ディグはさっきの仕返しのつもりで、さらりとダリアの話を無視した。背後で彼が憤るのを察するが、今は本気でウルリの方が心配だった。ディグはダリアを連れ、急ぎ足で地下へと向かった。


壊れた格子、ひび割れた床。それらはここで起きたのがいかに酷い惨状であったかを無言のうちに物語っていた。そんな中、肩で息をして、立ち尽くす影が一つ。すっかり傷だらけになったウルリだった。
ウルリの戦闘能力は、雷獣の力を遥かに凌駕していた。そう、初めだけは。彼の前では本能のままに行動する獣は、烏合の衆となるはずだった。しかし、戦いの中で獣達が力を合わせてしまった途端、形勢は少しずつ変わってきた。目の前にいる巨大な電撃の塊が、その全容である。既に獣とは呼べない形をしていたが、今や獣人化したウルリよりも雄大で、高いエネルギーを秘めている。

「くっそぉ……!手も足も出ないってこのことか!触るとなんかビリビリするし、どーしたらいいんだ……!?」
「苦戦してるなぁ化け物」
「う、うっさい!元はと言えばダリアが協力してくれないから!」
「だから俺は戦闘苦手なんだよ。下手に手を出してあんたの邪魔になる方が非効率的だろ?そう思って俺は敢えて手を出さなかったのさ」
「えっと……そうなのか?」
「そうそう」
「そっかー……それじゃ仕方ないか」

深く考えない質と疲労のせいで、ウルリはあっさり口車に乗った。二人の確執は呆気なくなくなったものの、それで状況が打開されるといったらそんなわけはない。以前ピンチであることには変わりなかった。

「な、なぁダリア!なんかいい策とか、ない?オレもう疲れちゃって、どうしたらいいかわかんないんだよ……」
「あー、それならもうすぐインテリ人間が来るからそいつに聞いてくれ」
「え!?ディグ、来るの!?雪図はどーなったんだ!?」
「解決したから来るんだよ。あいつならいい策をくれるんじゃねーかな」

そうこうしているうちに、巨大な稲妻が二人に迫る。慌てて手前の通路に退却し、攻撃をやり過ごす。幸い、肥大化したおかげでこの通路に繋がる入り口には入ってこられないようだった。
すると、エレベーターが降りてきて中からディグが現れた。格好はドレスではなく、化粧もしていない。片手に銃を装備して、完全に敵を迎えるための準備を整えていた。

「あー!ディグ!よかった!無事だったんだなー!……あれ?おっぱいはどこいったんだ?」
「ウルリ、まだ気を引き締めていてくれよ。事件は解決してないんだから」

感涙に咽ぶウルリに抱きつかれながら、ディグは彼の頭越しに巨大な稲妻を見る。

「雷獣、あんな姿にもなるのか……興味深いね」
「あんたもか。まだ終わってねーんだろ、気を抜くなと言ったのは誰だよ」
「大丈夫、人間を相手にするより単純だから」

ディグは赤い玉のようなものを取り出し、雷獣に向かって投擲した。それは当たると激しい火花が散り、接触した雷獣は悲鳴のような声を上げて後ずさった。

「な、なんだそれ!?爆弾か!?」
「研究部門が対雷獣用に作ったものだよ。放電を促す成分が入ってる。雷獣の正体は帯電するエネルギーの塊だからね」
「んん……?つまりどういうことだ?」
「エネルギーがどんどんなくなって存在を保てなくなるってこと」
「へー!科学の力ってすげー!」
「感心してないで手伝ってくれる?」
「おう!任せろ!ダリアもやるんだぞ!」
「ええ?俺もか?肩に自信ないんだけど」
「投げるだけなら戦闘じゃないだろ!だったらお前にもできるだろー!」
「何その理屈……あー、わかったよ。やりゃいいんだろ」

対抗策を得た三人には、進化した雷獣など敵 もう敵ではなかった。弱点を突かれた雷獣はみるみるうちに縮小し、やがて子犬程の小さな存在と成り果てていく。それは恐怖にぶるぶると震え、抵抗の意志も掻き消えていた。

「ふっふっふ。もうお前なんか怖くないもんね!」

ウルリは小さな雷獣を捕まえた。触るとピリピリする感覚はあったが、特に痛みはない。

「で、あとはどーすんだっけ?」
「依頼はクローン体の破壊だ。だから……」
「え?じゃあこいつは……」
「殺さないといけないんだろ」
「えー!?な、なんで?こんなになったらもう危険とかないんじゃないの……?」
「仕方ないけど、依頼がそうだから」

ディグも少し苦い顔をしていた。
不本意ながら生み出され、殺されなければならない命。それを良しとする覚悟は、二人にはまだない。依頼だからと言い聞かせるが、今のところ何の被害も出していないのに一方的に処分するのは躊躇われた。

「で、殺すのか?殺さないのか?」

ダリアが追い討ちのように問いかけてくる。彼にとっては何の気なしに吐き出された言葉だっただろうが、二人にとっては重く伸し掛るプレッシャーであった。

「そんなの、オレはやだよ!いくら頼まれたからってできないぞ!」

泣きじゃくるウルリ。ぎゅっと雷獣を抱き締めて、蹲ってしまう。
ディグにもその気持ちはよくわかっていた。だが、彼には命令を無視できるほど柔軟な思考がなかった。命令の無視は即ち信頼の失墜であり、今の立場が危うくなる可能性が高いのだ。そうなると、彼が今まで維持してきたものが崩壊する。ひいては、大事なものを失うはめになるだろう。それだけはどうしても避けたかった。

「ウルリ、お前が嫌なのはわかる。だから、俺に任せてくれないかな」
「いやだ!ディグも本当はいやなんだろ!だからいやだ!」
「でもそうしないと」
「いーやーだ!!」
「ごね方も化け物級だなこいつ」

腕をぶんぶん振り回して抵抗するウルリに、ダリアは嘲笑した。困ったディグは額に手を当てる。こうなったウルリを説得できた記憶はない。気の済むまで好きにさせるしかなかった。しかし、それを容認することは命令違反をするということ。どちらの選択肢もディグには選び難く、頭を悩ませ無駄に時間を費やす他なかった。

「あ!そうだ!いいこと思いついたぞ!」

すると突然、ウルリは目を輝かせて叫んだ。抱えていた雷獣をずいとダリアの方へ押し付け、鼻を鳴らす。

「な、なんだよ?」

わけも分からず反射的に受け取ったダリア。それを見て、ウルリは満足そうに胸を張った。

「ダリアに隠してもらえばいいんだ!」
「はぁ!?あんた何言ってんだ?!なんで俺が!」
「だってダリアは無関係じゃん。偉い人には消えちゃいましたって伝えればいいし!お前が引き取ってくれたらオレ達もこいつを傷つけなくて済むしさー」
「勝手なことを言うな!俺は面倒はごめんだ!」
「……なるほど、それはいいアイデアかも」
「便乗すんな!命令なんだろ!」
「バレなければ違反じゃないですし」
「あんたも実は大概だな…?くそっ!だが俺は絶対引き受けないからな!」

ダリアは小さな雷獣をディグに押し付けた。腕の中で、雷獣が潤んだ瞳で震えながら見つめてくる。それを見て、彼が出した答えは。

「ところでダリアさん。俺、昔犬を飼っていたんです」
「急に何の話だよ」
「ヒューイって名前で、ファムが特に可愛がっていました」
「…何が言いたいんだよ」
「ファムはこういう動物が好きです」
「くそ!飼ってやるよちくしょう!」

そう言って、ダリアは小さな雷獣を奪い返した。雷獣は震えていたが、彼の腕に落ち着いたとわかると次第に甘えた行動を取るようになった。人懐っこい目で、頭を擦りつけている。

「な、なんだよ。痒いのか?」
「いえ、それは雷獣が好意を示している行動です。良かったですね、懐かれて」
「ぜんっぜん嬉しくねーよ」
「おー!飼うんだったら名前つけなきゃだぞ!今度お前ん家遊びに行かせてくれよー!」
「絶対教えねー!」

ダリアの怒声が施設内に響き渡ったところで、事件は幕を下ろした。
後日、全裸で亀甲縛り状態の裡雪図が発見されたというニュースに人々はどよめいた。何かの陰謀説が囁かれたり、そういうのが趣味だったのかと誤解を生んだりしたが、雪図は断固として否定する姿勢を貫いていた。
その紙面を見つけたディグは少し気の毒に思ったが、この気持ちを理解してくれる人は誰もいないだろう。
雪図のしたことは許されることではない。だが、彼にそれをするだけの力を与えた存在が、増長させるよう仕向けた存在がいることを忘れてはいけない。
あれからその存在を捕まえることは結局できていない。だからこそ、第二、第三の被害者が出るのではとディグは懸念していた。

「なぁ、ディグ?どうしたんだよ、そんな険しい顔して」

ウルリが呑気に声をかけてくる。彼は雪図の真相を知らない一人だった。彼のことを聞けば、世間と同じく100%悪い奴だと答えるだろう。論より証拠というように、目に見える事実なしにはディグの意見であっても信じてもらえる気がしなかった。

「……なんでもないよ。それより、今晩はあのパーティの続きでもする?」
「えっ!何それ楽しそう!やるやる〜!」

ウルリのあどけない笑顔を見て、ディグはつられて笑った。拭えない不安はどうしようもないが、だからといってずっと悩んでいるわけにもいかない。こういう時くらいは気持ちを切り替え、できるだけ不安を忘れることにした。
今日はクリスマス当日でもあるのだから。
いかにしてウルリにバレないようプレゼントを贈るか考える方が、今の彼には悩ましかった。

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